哲学書のやわらかいよみかたについて

哲学者の話って、きいていたり、おしゃべりしていたりする分には、めっちゃたのしいのだけど、まじめに哲学の本をよむのは、骨がおれて、けっこうつらい。

これはたぶん、ぼくが哲学的思考にむいていないためだとおもう。不なれというのもあるだろうけれど。

以上のようなことをお酒をのみつつ、カミュの『シーシュポスの神話』をよんでいて、おもった。

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もしかすると、かたい系統の哲学の本って、かるい気もちで、酒でものみながら、ウキウキ高揚しつつ、よみすすめるのが、よいのかもしれない。

大まじめに、「こりゃどういう意味だ?」と、理解するよみかただけが、すべてではないような気がしている。

思考や感情のところで、刺激をうけているのなら、その哲学の本とのむきあいかた、よみかたは、ただしいようにおもった。「あの哲学者は、こういっている」というのだけが、すべてではなくて、「あの哲学者の話をきいて(よんで)、ぼくはこういっている」という理解のありかたがあるとおもうけれど、どうだろう。

上のような哲学の本のよみかたが、本をとおした哲学者との対話のひとつのかたちだとおもうのだ。ぼくが実際に哲学者とお酒をのみかわしたときの感覚的に、そうおもう。哲学のことはよくわからないが、非常に哲学的な空想を、そのときはしている気になるので、まちがいないとおもっている。

余談になるけれど、のせた写真の情報の主題は、当然、hideの顔にある。いうまでもないけれど、あえてhideがうつるように、配置している。

hideとお酒と哲学という組合せは、とても興味ぶかい。「hide」をかたわらにおいて、のむお酒は、とてもおいしい。

やりたいこと、自分の専門性、個性なんかのことをことばにして、うかびあがらせる。。

自分というものが、やっぱりわからないので、あれこれことばにして、外堀をうめていく。自分はいったい何者なのか、とか、なにをやりたいのか、とか、そういう話をしたい。

知識人といえるような枠組みにいるひとは、ぼくとのお酒を、割合たのしんでくれる。2度目もあるので、たのしんでいるのは、おもいすごしではないとおもう。

あるひとは、ぼくと、博多の街で、もつ鍋をつつきつつ、お酒をのみながら、「いつも、こんな感じで自由にかんがえられたらよいのになあ」というようなことをもらした。話の行間をよむと、「いつも」ということばからは、「研究あるいは大学教員という仕事」をさしているとおもわれた。

そのひとは、ぼくをさして「自由だ」という。ぼくは、それをほめことばだと理解したので、てれかくししながら、「知識人というか、研究者みたいな人間は、ぼくにとってはアイドルみたいに、ファンになる対象なので、おなじ目線で、知的生産のようなことをはなすことができているのが、とてもたのしいです」と率直につたえた。これは正直なところだ。

こんなところで、うかんでくるぼくの個性はなにだろうか。

学生もまた、ぼくとの会話をたのしんでくれている。成人しておれば、二人、三人つれて、お酒をのみにいき、2軒目に、はしごすることもしばしばある。学生は「たのしかったので、またつぎも、ぜひ」といってくる。やや目をかがやかせているようにみえるのは、ぼくの主観がなにかを期待しているからだろうか。また、お昼どきに、学内で学生とでくわしたとき、「いっしょにたべよう」とさそえば、よろこんでついてくるものもいる。このまえのお昼は、学内の広場で、学生6人といっしょに弁当をたべた。ピクニックみたいな感じで、たのしかった。ぼくはこの大学の学生と食事をともにするのが、すきだ。なにも気にすることなく、大放言できるので、とてもたのしい。

はじめっから、最後になにをいうのかきまっていた気がするので、はっきりいおう。ぼくの個性は「自由」だ。よりかかる柱は、自由なのだ。

しかし、これでは、なんともたよりない。自由なんてものは、とらえどころがないし、だいたい、裏がえしとして、「抑圧」とか、「制限」とかがあって、はじめて自由は成立するので、これはこまる。

自分のよりかかる柱、つまり個性(いまは個性よりも専門といいたいが)はなんだとなったとき、その回答が自由では、どうもしっくりこない。

「自由」とは"無"であり、なにもないことだ。また、裏がえしとしての「制限」とか「抑圧」は、いいかえれば「できない(しない)」ということだ。

外堀をうめてみても、なんにも光明はみえなかった。はじめから、いいたい結論がきまっていたので、こんなことになったのだとおもったところで、予定外のヒラメキがあったというか、予定調和な結論から逸脱してみる気になった。

「制限」とか「抑圧」を「できない(しない)」ととらえずに、「これをやるしかない」とでも、いいかえてみたらどうだろう。あるいは、ここに、ぼくの専門がみつかるかもしれないという気になった。

「これをやるしかない」というのが専門であり、「放っておいても自然とでてくる」というのが個性なのではないか。

これでいくと、ぼくの個性は「自由」であり、専門は…、「これをやるしかない」ということで、毎日やっていることだ。

この一年、毎日hideのことをかんがえてきた。数年前は、毎日梅棹忠夫のこと、氷室京介のことなどをかんがえてきた。もっとまえは、司馬遼太郎のことを毎日かんがえてきた。そして、かれらのことをかんがえながら、つねに、そばには自分という存在を想定していた。つまり、毎日、自分のことをかんがえているのだ。

そういえば、毎日、疲労困憊になりながらも、はたらいている(労働している)ことも、「これをやるしかない」ことかもしれない。

とりあえず、ぼくが専門としたいのは、hideであり、また司馬遼太郎梅棹忠夫であり、そして自分なのだ。

最後に、べつに方法論とか、特定の学問分野を専門にしたいわけではないんだといって、このややながい文章をおえる。

かぎられた時間のなかで、集中して、なにをするのかが重要なのだ。その集中は、「病む」ことでもよい。ふかく病むことは主体的なことだ。

人間は、それぞれに、かぎられた時間のなかで、どういきるのかということだけが重要なことなのだ、といように最近はおもえる。

かぎられた時間のなかで、なにをするのか。

まよったりする暇はなくて、集中して、行動するのが最良だとおもう。

「まよったりする暇はない」といったので、誤解が生じるので、あわてて補足しなければならない。

いいたいことの真意としては、「まよったりすること」自体も、わきめをふらず、集中しておこなうのがよいということだ。

なやんでいたり、精神的に病んでいるようなひとも、目一杯それに集中したらいいのだとおもう。なやむことすら、なやんでしまうって、それはすごくよくないとおもう。

「なやんでいるけれど、こんなことで、なやんでいて、いいのかな?」などというのは、「なやみの本質」から、すごくとおい感じがする。

なやんでいるひとは、すこしがんばって、そこからだけは、ぬけだす方がよいと、ぼくはおもっている。

なやむことは、とても主体的なことだ。なぜなやむのかというと、現実と理想との解離をうめようと努力しているからだ。その努力は、ふかい集中によって、行為しつづけていれば、いつか実をむすび、現実と理想を統合させるとおもうのだ。

それとはちがい、「なやむことすら、なやんでいる」という状態は、主体性がおびやかされているということに、気づいてほしい。

財布をひろった話

午後9時ころ、残業おわりの帰宅途中に、腹ペコのなか、財布をひろった。

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駐輪所で、ぼくの自転車のとなりあった自転車の荷台におきわすれていた。

腹ペコゆえに食欲がまさり、悪魔(金銭欲)がささやく声はきこえなかった。逆に天使(良心)が「しゃーない、交番にとどけてあげるか」とかたりかけた。

時系列は前後するが、はじめ財布をみつけたとき、なかをあけて、免許証でもあれば、電話をしてあげようかとおもった。だけど、なかをみてみるのも、なんかイヤだなーとおもったのでやめた。もし、ちょうど、紛失したことに気がついたもちぬしとバッタリあって、うたがわれたりしたら、すごくイヤだ。

イヤだなーとおもったあとに、天使の声がきこえたのだ。

どこか交番はなかったかなあとおもいめぐらしたら、ちかくにあったことをおもいだしたので、とどけてみることにした。まあ、とおくても、とどけただろうとおもう。

自転車のカゴに、ポイッとその財布をほうりこんだけれど、なぜだか、多少泥棒をしたようなイヤな感じがあった。

いざ交番へ。

交番についてみると、誰もいない。「すいませーん」と声をだしても、奥からは、だれもでてこない。

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具体的にみせるのは、はばかられるとおもうので、雰囲気だけでも。

電話がおいてあり、そばには「おこまりのかたは、505へ連絡してください~うんぬん」というような掲示物があった。

電話をしてみると、声質的に年配だろうと想像できる警察官が応答した。財布をひろった旨をつたえると、「おいそぎですか?お礼だったり、権利関係、ひろわれたかたの所有権の問題などもありますので、おまちいただけるのなら、おまちください」と、その警察官はいわれた。

ぼくは腹ペコだったけれど、よい社会見学だとおもったのと、10分くらいでつくといわれたので、まつことにした。

交番のなかのイスにこしかけて、しばらくまっていると、警察官がかえってきた。わかい男性だ。

いろいろ手続きがあるみたいだったけれど、ふたつの選択肢をあたえられた。ひとつは、俗にいうひろった額の1割をもらうだとかのために身分証明および手続きをすること。もうひとつは、善意のひととして、名前をあかさずに、手続きもせずかえること。

どっちにしようか、まよったけれど、警察官が財布のなかみをみたら、1000円とちょっとしかはいっていなかったので、善意のひととなることにきめた。

おもしろかったのは、それでもなお、最後に、警察官から「もちぬしが、もしかしたら、感謝の気もちをつたえたり、お礼をしたい場合もありますので、名前と連絡先だけでも」といわれたことだ。

ぼくは、「連絡先をおしえて、トラブルとか、なにか面倒なことって、おこるケースとかってありますか?」ときいたのだけど、わかい警察官は、にがい顔をしながら、「まあ、連絡先が相手のひとにしられてしまうということくらいです」と、こたえられた。ぼくは、「まあ、1000円しかはいっていないし、とどけたということだけにしておきます。もっと大金がはいっていたら、手続きしたんやけど。」といって、善意のひととして、つらぬくことにした。

まあ、よい社会見学をできて、たのしかったのだけど、出会いという経験に積極的なひとは、あるいは手続きをしたり、連絡先をのこしたりするのかなあ、などとおもいながら、交番をあとにした。

安心は、根拠のない信頼をうむ~おいしい食事の基準から~

食事は、やっぱり「安心」できるかどうかが、おいしさの第一条件だ。

つとめている大学の食堂は、個人的にちょっと安心できない。お箸をちゃんとあらっているのか?とか、からあげはちゃんと火がとおっているのか?とか。

こんな不信の原因については、具体的にはいわないけれど、たとえば、ご飯の釜が結露で汗をかいていて、べちゃべちゃのご飯であることも、不信の原因のひとつだ。

まあ、気にしすぎだとか、神経質かといわれれば、それまでだろう。しかし、うえのような不信があるから、ぼくは大学の食堂の食事をおいしいとはおもわない。

ところで、今年度から、大学の校内で、お弁当を販売する業者さんがでてきた。実はそれは、なじみの居酒屋さんがやっている。居酒屋さんは、お昼にもお商売をしたいということで、大学に話をもちかけて、成立したのだ。

これがおいしい。

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たべさしで、きたないけれど。ヤンニョンジャンで、あえたからあげ。

なじみのお店なので、商品への安心がある。変なものははいっていないだろうという安心感だ。この根拠のない信頼があるから、市販されているものであろう、つけものでさえも、おいしく感じた。

あれもしたい、これもしたい。

英語の勉強でも、はじめようかな。なにか外国語を勉強したいのだけれど、やっぱり英語の方がよいのかなあ。

英語に関しては、成功体験はまったくなくて、まけ戦ばかりだ。受験英語は、ずっとボロボロだ。

こういう教材で勉強してみようかとおもっている。詩の勉強もしたいので、ながつづきするかしら?とおもっている。

声に出して覚える英語の詩50選

声に出して覚える英語の詩50選

ほんとうは、すきな英語圏の詩人がいたら、もっとながつづきするのだろうけれど。なかなかみつからない。

なぜ英語を勉強したいのかというと、こころに関することで、大学院で勉強しようかなって、おもいはじめたからだ。大学院で研究するなら、英語ははずせないらしい。

話はかわって、コンピュータのことも勉強したい。プログラミングだったり、データベースだったり、いろいろしりたい。自分のブログも、かっこよくつくれたりすると最高だ。

もうひとつしたいことは、表現だ。ことばで表現したいし、場をつくることで表現したい。

あとは、せっかく経理の仕事をしているので、もうちょっとだけ簿記の勉強をしてもいいかなあとおもいはじめている。

やりたいことが、たくさんある。

はたらいていたら、どれも全然できない。
今日も帰宅したのは21時だから、ご飯たべて、風呂にはいって、いまねようとしているわけだから、ほとんどなんにもできていない。

はたらくのって、コスパわるいな。

かなしいって感情は、どんなかたち?~かなしいって気もちが、よくわからない~

ちょっと気づいたことがある。

意識的にも、無意識的にも、めちゃくちゃ感情的にいきているわけだけど、喜怒哀楽のうち、喜怒楽はすごくはげしいのに、哀はまったくといってよいほど、でてこない。

これはそもそも自分の欠陥なのか、そのうちでてくるのか。どちらともかんがえられる気がする。

感情的に行為しまくっていて、喜→楽→怒と感情表現がはげしくなってきたので、つぎは哀がでてくるのかもしれない。もうじき、号泣しながら、酒をのむ日がくるのだろうか。

しかし、同時に、もはや、ほんとうにかなしむときはやってこないような気もする。10歳のときに、おばあちゃんの死に直面して、かなしみつくしたような気もする。

おもいかえせば、ほんまに、おばあちゃんの死以降、かなしいという感情がでてきたことがないような気がする。かなしいという感情のかたちが、想像できない。

かなしいという感情のかたちをしったときに、なにごとかが完成するような気もするけれど、どうだろう。