母と子のつながりをきった先にある関係

おもしろい変化がある。

なんか母親のことが、すきになった。なんかすごくちかく感じるようになった。

母親という人間のことをすきになった。

どうもこれはマザコンなどといわれるような感じのものではない。

母と子というつながりが、バッサリときれた感じがしていて、母親のことを母親とみなくて、人間として、みとめているような。

なんか母親にむけるまなざしが、なかなかクリアな感じで、人間の尊厳を母親というひとに、しっかりみとめているような。

そのつながりをきったのは自分の意志だというのはたしかで、そして、いさぎよくきられたというところに、母親の意志もあるとおもう。

なんというか、他者をいとおしむまなざしと、他者をまったくべつの個体だと峻別する冷徹な目が、同時にあるような。

この感覚は、すごくほしかったものだ。
明日の朝までのこっているかわからないが、一度、納得できた感覚は、からだから、きえてしまうことはないだろう。

以上。

すきなひとから、自分のことを理解する方法

自分がすきになったひとのことを、丁寧にことばにしたとき、自分のことがすこしわかるような気がする。

そういう感じがあることについては、むかしから、ぼんやりとしっていた。

ぼくは、「あのひとは、どうだ。」と、ことばにすることが、けっこうすきだ。しかし、技術がないものだから、単なるウワサ話になってしまいそうになるので、極力さけてきた。本当は、あのひとのことをことばにすることで、自分のことを、外堀をうめていく感じで、表現したいのだ。

この意味で、エスノグラフィーという方法には、興味がある。相手を傷つけずに、相手のことを、ただしく、ことばにする方法を手にいれたい。

相手にあたえる印象と自分の本心とのギャップ

「ひとの群れにまぎれて、すごす」ということを訓練してきたことが、かえって、あだとなっているかもしれない。

「あいさつはきちんとする」とか、「会話のときは適度に相づちをうつ」とか、そういうことを訓練してきたので、身にしみついている。また、他者とまともに会話をできるようになりたいとおもい、ディベートだったり、いろいろと訓練もしてきた。

ひとのなかにいても、できるだけ挙動不審みたいにならないように、そして、Peopleになれるようにと、おもって、以上のことをやっていた。

努力したおかげで、いろいろと、そつなくできるようになってしまったので、初対面のときなど、「ひとあたりがいい。ちゃんとしている。」という印象をあたえることができるようになった。

しかし、あいかわらず、こころのなかでは、人間への恐怖や社会不適合など、そういう不安や問題にしばられている。

訓練して身につけた技術によって、他者にあたえる印象や評価が、内的な実体とは、かけはなれたことになっている。これは多少、問題があると感じている。これでは、本当にてきないことをできないといえない。

ぼくの問題をまわりの人間(社会的)に、認識してもらうためには、あるいは、常日ごろから、ムスッとしていたり、ろくに返事もしないような人間になる方がよいのだろうか?いや、バカなことをおもいついた。そんなわけがあるか。

なんにせよ、これでは、他者から、ただしく理解されないような気がする。

しかしながら、こうやって、モヤモヤしていたことをことばにしてしまえば、どうでもよいことのように、おもえてきた。いったい何に違和感をおぼえて、なやんでいたのだろう。つまらないことは、とりあわないでおこう。

リアリティーのないリアリティー

「結婚とか、家庭をもつ気がないから、一生懸命はたらこうって、ならなくて、いまいちパッとしないんでしょうね。」と、半分は真理で、もう半分はまったくの誤謬だとおもいながら、ふいに声にだした。そして、「月に15万円くらいあれば、その日ぐらしなら、それなりに生活できますし。」とつづけた。

すると、「家庭をもつつもりがないってのは、よくわかる。ひとりで生活する分には、そんなにお金がいらんのも、わかる。けど、将来のこととかについてのかんがえは、全然ないんか。あんまりリアリティーがないな。」ということばがかえってきた。

そのことばには、「リアリティーか。たしかに、リアリティーはないですかね。だけど、いまのひと、というか、むかしから、そういう感じのひとは一定数いますが、就職氷河期くらいからですか、ふえてませんか。つい最近も、新聞の一面をかざっていましたし。」とかえした。

なんてことのない会話だが、「リアリティー」というひとつのことばについて、この会話をしているふたりは、とらえかたが全然ちがうと感じた。

「議論をする気も、論争する気も、わからせる気もない」という共通の認識にたっていたとおもうので、そのちがいの溝のおおきさを明確にするようには話は発展せず、この話題についての会話は、ここでおわった。

ぼくはこのちがいについて、相手は「リアリティーがないというリアリティー」のことがわからないんだとおもった。反対に、ぼくは、「リアリティーそのもの」のことが全然わかっていないんだとおもった。

昨日もまた、「お前は、観念論者みたいやな」といわれた。ピーターパンとか、ファンタジーとか、そういうことをべつのひとにもいわれているが、おなじことをさしているのだろう。自分でも、自分自身のことをピンクスパイダーだとみとめているので、そういわれたことには、「よくいわれます。」とこたえた。

ぼくには、「リアリティーがない」というのは、たしかだとおもう。

2019/6/19 上司とふたりで焼肉屋で食事したかえりの車内にて

 

<参考:上司とふたり、焼肉屋での会話①>

hide-himuro.hateblo.jp

 

ひととの距離感は一言でガラリとかわる

<これまでの自分だったら、「このひとには、つたわらない」とおもったら、「ピシャッとこころをとざす」か、「むきになって、議論して、わからせてやろう」となっていました。

だけど、今日はそうじゃなくて、「このひとの物の見方、考え方はこうなんだ」って、うけとめることができたので、「自分はちょっと成長しているというか、まともになっている」とおもいました。>

「真意はあまり理解されていなくて、かみあわないなあ」と、おもいながらも、それでも、いろいろ話をきいてくれて、真剣に返答してくれたので、ありがとうございましたという感謝のことばのあとに、上のような感想をそえた。この瞬間に、相手の様子がちょっと変化した感じがあった。

それから、店をでて、家のちかくまで、おくってもらう車のなかで、相手との距離感が変化しているのを感じた。相手はグッとあゆみよってきてくれて、さっきとは、うってかわって、ぼくの話をひきだすような、間合いに変化したように感じられた。

はじめから、店をでるおわりの瞬間まで、ずっと相手は、自分の物の見方で、ぼくを品さだめするかのように、話を展開していた。そういう間合いなので、ぼくは、終始、歯切れがわるく、考えをうまくことばにすることができなかった。

これと、かえりの車内での会話を比較すると、全然ちがった。車内では、相手は、ぼくが職場の業務外に、私的に活動し、勉強してきたことについて、話をひきだしはじめた。こうなると、ぼくは歯切れがよくなる。その私的な活動が、業務内の学生とのかかわりあいに、役にたつことがおおくなってきたと、多少ハッタリがあるが、いいきった。

相手との距離感は、一言でガラリとかわるのだということを肌で感じた瞬間だった。

上司とふたり、焼肉屋でのひとつの場面、2019/6/19 21時半ころ

そもそも不安定な人間なのだから、安定しようと努力するの、やめた、あきらめた。

もう安定しようとするの、やめた。

よくよくかんがえたら、安定していたことなんて、ものごころがついたときから、ないやん。

だいだい、いつも、こころのなかに、ことばを封じこめて、モヤモヤ、ムカムカしながら、だまりこんで、だましだまし、すごしてきたではないか。なにかを、うまく整理しながら、ピシャッと、できたことなんかあったか?まったくといっていいほど、なかったではないか。

はじめから、不安定なのが、基本なのだから、もうそれでいい。

そもそも「安定していたころ」なんていう妄想を現実のことだとおもっているのが、おかしな話だ。「じゃあ、キミの安定していたころって、どんなんやの?」ってきかれても、「…」、こたえられない。

「安定していたころのように、もとの自分に、もどろう」とか、おもうのは、もうやめだ。どこで、ボタンをかけちがえたのか、不安定なのが、もとの自分やん。

おちこむ→しばらく、ひきずる→気分転換がうまくいく→元気になる→おちこむ→ひきずる→…のくりかえし。これが基本なのだ。

だいたい、いっていることも、かんがえていることも、コロコロかわって、二枚舌なところもあるし、全然一貫性のない、不安定な人間なのだ。

そうや、嫌なことがあっても、夜になって、島田紳助の漫談なんかをみたら、あっさりと嫌なことをわすれて、ケラケラとわらえるくらい、一貫性のない不安定な人間やったやん、むかしから。

いまだって、なやんでいて、いきるのがマジできつかったりして、精神的に危険な感じがある一方で、そういう自分の内的世界をアレコレと観察して、たのしんでいるところもあるし。

安定した、まっとうな人間になろうとするの、あきらめた。

自分の人生、どうやって自分なりに、いきていくか。

「メンタルがよわい」などと、自分でいうひとや、なんらかの精神的な疾患について、自分で感じとっているひととのやりとりを継続している。

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彼らの世界に、はいりこみすぎて、こちらまで、変な感じに何週間もなってしまっていて、いま、たてなおすのに、必死になっている。それで、はいりこんだあと、ちょっとでてこれたとおもったら、実はそのでてきたところは、入口とは別のところで、しまっていた扉をあけて、でてきてしまったみたいになっている。

やりとりしている彼らにあたえる影響もあるとおもうが、ぼく自身が、自分なりの人生設計をしっかりして、「今後、自分のちからで、いきていこう」という、そういうふうに、とても影響をうけている。

昨日、藤川球児をじかに、ひさしぶりにみて、藤川球児がメジャー経験について、挫折をみとめながら、しかし、自分なりのベストをつくして、いきることを選択したことをかたっている記事をおもいだした。

橋本 メジャーでもいろいろ経験して、純粋に野球にのめり込みたいみたいな?

藤川 のめり込まなきゃというのもあって。契約もあったし、常に結果出さなきゃ結果出さなきゃってやってたんで。向こうだとトレーニング施設から練習プランから、まず今日何するか、明日どうなるかもわからない。いっつも上のほうで首があっぷあっぷなってる感じでしたから。最後これポキンって切れて終わるなと思って。その前に精神的にも安定して野球したいなというのも大きかったですね。

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正直に、こういうことをいえるのは、かっこよいとおもう。やっぱり、むかしから、藤川球児は、ぼくのヒーローだ。次元のちがう世界での話だとおもう。しかし、ちいさな世界ではあるが、ぼくがことばにしたいことを、ほぼ完璧に、代弁してくれているとおもう。 

余談にながれすぎている。

なにがいいたいかって、「メンタルがよわい」などというひとの、ことばにならないこころの声を、面談というやりとりをとおして、代弁というか、かわりに言語化するということが、けっこうできているのではないかと、すこし手ごたえを感じている。

エスノグラフィーとか、なんかそういう記述の技術を訓練して、身につけることができれば、そういう仕事で、なんとか、ちいさくても、生計をたてて、いきていけるのではないかとか、多少すがるおもいで、おもったりしている。なんか、俯瞰的に、そのひとの物語をえがいて、道筋をしめして、一歩ふみだすきっかけをあたえるというか。

その辺の業界のこと、まったくしらないので、しりたいので、おしえてほしい。