ある異邦人の素朴な感覚について。
原風景は司馬遼太郎に根ざし、思想的なよすがにしているのは梅棹忠夫であり、いきかたについては鶴見俊輔のようにありたいと、あこがれている、平凡な在日外国人。
人間のタイプとしては、いわゆる、病んだ人間であり、自己をアウトサイダーであると規定している。治癒のために、心身についての知恵をあたえるものとして、河合隼雄と竹内敏晴をたのんでいる。
いま、ここに存在していて、他者のまえにあらわれる自分は、はっきりと主張はしないくせに、我のつよさがあり、わかりにくくて、あつかいにくい人間だろうと、自画像をえがいている。
これらについて、「わたし」は、すべては主観であり、おもいこみでしかないと理解している。そして、このことをあきらめの根拠とし、自分のよわさを肯定している。これは、つまり、「いたい方角をむいて、死ぬこと」からの、にげ口上である。
以上は、妄想の産物である。
妄想をいきる「わたし」に、「いきる」という根源的なちから、つまり、妄想の世界から、とびだして、他者にはたらきかけるちからをあたえたのが、hideである。
そのちからによって、ピンクスパイダー(妄想人間)は、『ろけっとこざる』のように、宇宙(未知の世界)へ、とびたつのである。
- 作者: H.A.レイ,光吉夏弥
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1998/03/05
- メディア: 単行本
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ひさしぶりに、ひとりでのむ酒はうまい。
だれのことも気にせずに、泥酔できる酒には、自由がある。
しかし、おそらく、ここは「いたい方角」ではないということに、気がついた。
とはいうものの、たまには、これもよいのだと、あらためて、気がついた。
ナラティブによる自浄作用のために、安心し、決心がにぶってしまった昨日の今日。
今朝は、すごくぐっすり、ねていた。あけがたに、おそらく、トイレにいったのだが、それが夢のような気がするほど、意識がとんでいた。いつもは、一度、おきてしまったら、ねられないので、これは、めずらしい。たぶん、つかれているのだろう。
目ざめが、多少、爽快だったので、家をでるまでは、気分がよかった。
しかし、すぐに、いらついた。
自転車を両手放し運転し、右折してくる高校生に、はねられかけて、その後、交差点で、自転車にのりながらスマホをさわっているひとが目のまえをよこぎるし、地下鉄の階段で、タバコを吸っている非常識な人間とすれちがうし、散々なことがつづいた。
この世界は、いかれた人間がおおいと、おもわざるをえないほど、不快だった。
こんなふうに、無性にイライラするのは、たぶん、人間に関心をもちすぎてるいるからだろうと、おもいなおして、いらだった気分をおちつかせた。
出勤後は、あまり、なにもかんがえないようにして、目のまえにある仕事をかたづけることに集中した。
集中したのはよいが、どうも、副鼻腔の調子が、ちょっとわるいみたいで、後鼻漏がひどくて、咳がとまらなかったのが、つらかった。
ちょっと気をぬいて、集中がとぎれると、「真理は、いたい方角にある。その方角をむいて、死ぬ以外に、なにができよう」という鶴見俊輔のことばが、頭をよぎった。あれだけ、「ここで、はたらきたくない。たすけてくれ。」と病んでいたのに、ふつうに、はたらいていて、「もういいや、もうすこし、ここで、がんばろう」と、おもいなおしはじめている自分が、信じられなかった。「いたい方角」がどっちなのか、皆目わからないが、どうも自分は、いたくない方へ、むかおうとしているように、おもわれた。
ナラティブによって、治癒されることを、自浄作用といったのだが、自浄作用によって、もたらされた安定が、こんな不誠実な自分をうむのなら、ことばをぐっとこらえて、限界まで、たえしのんで、破滅にむかう方が、到達したい自己実現の道なのではないかと、おもった。
2、3日まえは、この「いたみ」が、創造的退行であることをいのっていたが、自浄作用によって、安定がもたらされた途端に、その「いたみ」をわすれているようでは、今後も、自己実現は達成されることはないのではないかとおもう。
あるいは、ナラティブによる自浄作用があるということを自覚した、この状態が、自己実現にむかう、あたらしい局面なのかもしれないことに、希望をたくすしかない。
そんなことを、気をぬいた瞬間に、ぼんやりかんがえていたら、なんだか、すこし、バカバカしくなってきた。なぜ、こんなことばかり、かんがえなければ、ならないのだろうか。なぜ、こんな、意味不明に、いきなければならないのだろうか。
午後になって、「全部、正直に、いおう。」という決心を相談したい、信頼にたる上司が、コーヒーをのんで、すこし休憩していた。それをみた瞬間、「ええい、サイコロをふらにゃ、なんにもわからへん!」と直感的におもい、ちかづいて、はなしかけた。
「相談をしたいことがあります。建設的、発展的な相談をしたいとおもっています。たすけていただければとおもっています。一生懸命、はたらきたいとおもっていますので。よろしくおねがいいたします。」
「よっしゃ、わかった。ちかいうち。」と、こたえてくれた。
ありがたかったが、自分の二枚舌なところや、無自覚なところを直視させられた気になって、やりきれなかった。
「一生懸命、はたらきたい」と、この口からでてきたことばは、ほんものなのか。「はたらきたくない」と、文字であらわしていることばは、ほんものなのか。
それから、退勤時刻の前後2時間ほどは、ひさしぶりに、すこしやる気を感じながら、「かんがえる仕事」に、集中して、とりくむことができた。今日、それをできて、うれしかったが、明日のことは、わからない。明日になると、また、だるくなっているかもしれないので、期待はしない。
結局、今日は、かえりの電車でも、ずっと、「いたい方角」のことをかんがえていた。今日は、ずっとだ。自分は、「いたい方角」をむこうとはするが、その方角をとらえた瞬間に、目をそむけたがる。そういう「よわさ」をもった人間なのだ。その「よわさ」が、自分をウソつきにする。
そのウソのひとつが、やさしさなのだ。「いつでも、やさしさをよわさとわらわれて、よわさをやさしさに、すりかえてきたけど」と、28歳、29歳の氷室京介がANGELで、はじめて、うたったということをおもいだす。もし、ぼくに、やさしさがあるとするなら、それは、自己欺瞞のやさしさなのだ。
もし、このような逡巡が、「いたみ」なのだとしたら、多少ながらも、それとむきあうことができていることが、せめてもの、すくいだ。
最後に、今日も、はしった。
4.8km、28分。1km6分弱のペースだが、5kmくらいなら、苦にならずに、はしれるようになってきた。最近は、とにかく、はしっている時間が、ここちよい。なぜなら、はしっているときは、なにもかんがえなくてもよいからだ。ことばから、自由になれることが、気もちよい。
さて、そろそろ、ねよう。おやすみなさい。
不安をことばにすると決心できるが、その決心が安心をうみ、かえって、決心をにぶらせる。
昨日まで、ずいぶんと、気分が、おちこんでいたので、ことばを消費しすぎた。
だけど、たくさんことばにしたおかげで、こころの奥に巣くう悪魔の正体がみえた気がしている。
悪魔の正体はなんだというまえに、悪魔がいすわる部屋のとびらのまえに、悪魔のちからに屈服し、悪魔にひれふす自分の分身がいた。仮に、その自分を「よわさ」と名づけておこう。
自分のことを、ことばにしていくと、その過程で、自浄作用がはたらく。つまり、なやみごとというのは、ことば化していく作業のなかで、客観視できるようになったりして、おのずから解決されていくことがあるのだ。
今回も自浄作用がはたらいて、すこしは、気がらくになった。
しかし、この自浄作用が、ぼくの場合は、おとし穴だったのだ。
「すこしは、気がらくになった」ことをいいことに、ぼくの「よわさ」は、「問題は解決されつつある」と"おもいこみ"をして、悪魔の部屋(問題の確信)にすすむことから、にげるのだ。
いつも、だいたいこのパターンだ。
昨日は、不安やまよいをたくさんことばにしたあと、「よし、明日には、腹をくくって、いま、しんどいことを上司につたえて、相談しよう。」と決心したのだ。しかし、ここで自浄作用がはたらいたことで、安心してしまったのか、今朝、おきると、「ちょっと、おちついてきたし、もう相談しなくてもいいかな?自分のちからで、解決しはじめたかもしれないから、あせらずに、ちょっとまっても、よいかもしれない。」とおもいはじめた。
たぶん、これがダメなのだ。「よわさ」が悪魔のまえに、ひれふした瞬間なのだ。
「真理は、いたい方角にある。その方角をむいて、死ぬ以外に、なにができよう」と、鶴見俊輔はいっている。
あっているか、まちがっているかは、わからないが、昨日、自浄作用がはじまるまえにあった「いたみ」が、さししめしていた方角をむいて、死ぬ以外に、なにができるだろうか。
自浄作用がはじまる寸前に、腹をくくって、決心したことをやってみるだけだ。それだけのことだ。
夢と現実。少年とおとな。
気持ちのうえでは、自分はヒーローにふさわしい「やさしさ」と「正義感」、そして、「逡巡するこころ」をもっていると、いまでもおもっている。しかし、いざ、おとなになってみると、ヒーローになるには、うつわが必要であるということに、気がつく。
うつわとは、つまり、精神のつよさのことである。
やさしさや正義感と悪を成敗することとのあいだに、こころがゆれ、逡巡するだけでは、ヒーローはつとまらない。そこに生じる矛盾をのみこむことができる精神のつよさが、ヒーローには、もとめられるのである。
思春期まっただなかのころ、司馬遼太郎のえがく、坂本竜馬にあこがれた。しかし、竜馬のようになることは、ぼくには、どだい無理な話だったのである。
これは、ただそれだけの話である。
だから、なにも、むなしくなることはない。少年のころ、いだいた夢は、おとなになり、かなわぬ夢と気づいたあとも、胸にひめて、もちつづけることで、また、ちがうちからをもちはじめる。
ヒーローになるという大志を一度でも、いだいてしまったひとは、それを信じるより、しかたがないようにおもう。
なにを信じて、いきていくのか。
素朴な疑問が、ふと、うまれた。
ふつう、ひとは人生のことを、だれかに相談したり、するのだろうか。
自分の人生について、相談するために、だれかに、はなしても、うまくつたわったためしがない。もちろん、そこには、ぼくの言語化する能力の不確かさによることがあるのだけど。だけど、ニュアンスすら、くみとってもらえた経験が、あまりにも、すくない。何度か、ためしてみたが、そのたびに、つたわらなくて、傷つくので、いつしか、人生のことを相談することをあきらめた。だれに対してのことかは、もういわないが、10歳代から20歳代前半にかけて、この虚無感はうまれた。
そういう経験があるのだけど、ちょっと角度をかえて、かんがえてみると、ふつうのひとは人生のことを他人に相談したりしないのかもしれない。だから、ぼくの相談することの真意が、つたわらなかったのだろうか。あるいは、意外な相談に、とまどっていたのかもしれない。
だけど、もう一度、角度をかえて、かんがえてみると、ぼくのいまの人間関係では、ぼくが相談したことについて、しっかり意をくんでくれるひとが何人もいる。親密さの大小にかかわらず、きいてみたことに、真摯にこたえてくれる。だから、ぼくはいま、紆余曲折しながらも、すこしずつ、治癒する方へと、むかっている実感をもつことができているのだとおもう。
謎だ。
謎だけど、いま、ぼくが相談をもちかけて、意をくみとろうとしてくれて、真摯にこたえてくれたひとびとは、とてもユニークな人間なのだということは、たしかだ。ぼくは、そういう感想をもっている。
最後は、やや飛躍するけれど、なにを信じて、いきていくのかというと、ぼくが、したしみを感じているユニークなひとびとたちからの回答を、ぼくなりに意味をくみとり、解釈したことを信じていくよりない。
正直さについて。
先週の金曜日のお酒は、とにかく、たのしかった。
ぼくから、先輩ふたりをお酒にさそって、つきあってくれた。なんてことのないことなのだが、それが、たぶん、うれしかったのだろう。
ぼくの深層にある思惑をくみとってくれたような気になることができたのかもしれない。
おおげさだが、「ぼくの存在の価値をみとめてくれ」というさけびを、みとめてくれたような気になったのかもしれない。
「2軒目に、はしごしよう。マッコリをのみたいです。」と、わがままをいって、ふたりとも、うけいれてくれたときが、最高に、うれしくて、たのしかった。
ぼくは、たぶん、こういう経験が、すごくすくない。ここが、自分自身をこまらせる悪魔に、すきをつくっているような気がする。
たぶん、もっと、率直に、ひとに、たよったらよいのだとおもう。まあ、しらんけど。なんとなく、そうおもう。
言葉数がおおすぎるのが、ダメなのだ。もっと、率直に、正直に、やる必要がある。
正直に、いおう。
いま、たすけてほしい。
はたらきたくない。
体調をくずして、副鼻腔炎が再発してから、ずっと、はたらきたくない。こわい。
体調をくずしているのに、いっこうに、仕事はへらしてくれないし。つまり、それは死ねってことだろう?
ますます体調をくずして、身体が死ぬのは嫌だし、このまま、精神が死んでいくのも、嫌だ。
いきながら、廃人のようになるのは、嫌だ。
体調がすぐれないことは、つたえている。それでも、仕事をへらさずに、ぼくに過度な責任をもたせてくることには、いまは、とても、たえられない。
納期とか、正確さとか、しらない。死にたくないので、できることしか、やらない。キャパをこえてまで、死力をつくして、やることは、いまはできない。
たすけてほしい。
「おもいこみ」のなかに、いきなければ、自分をたもつことができないというくるしさ。
冷静にがんがえると、インターネットに、こんな感じで、自分について、ことばをかきつらねているのは、キモい。もちろん、なかには、キモくないものもあるだろうと、多少の自信はあるが、キモいものは、キモい。われながら、そうおもう。
こんな羞恥プレイみたいなことは、もともとやっていなかったことなのだから、すぐにでも、やめたって、よいのである。そもそも、こんなことをやらなくても、25歳くらいまでは、なんとか、いきてきたのである。
しかし、いまとなっては、これをやめることは、できない。やめてしまうと、なにかが、こわれてしまいそうな気がしていて、そこに、こわさがあるのである。
ところで、「こんなこと」とは、なんぞやというと、「社会性がない」だとか、「はたらくことができない」だとか、そういうたぐいのことである。はじらいもなく、そういうことをよくかいているだろう。
自分の生活の実際をいうと、毎日、ふつうに、はたらいている。ズルやすみもしたことがないし、有給も、ほとんど消化したことがないくらいである。だから、「社会に、でることができない」などということに、不安になったりして、過度に気にする必要はないのである。実体としては、十分すぎるほど、社会的にいきているのである。
しかし、これについても、「自分には社会性がない」という"おもいこみ"をすてることはできない。社会性がないと、「感じいりながら、気にしすぎる」ことをつづけなければ、自分が、くずれてしまいそうで、こわいのである。
自分の現状のことをふりかえってみて、どうも、自分で自分をいためつけているような気もする。「自分には社会性がないし、躁鬱的な気分のあらさがある。そして、世間が苦手で、ひとと、まともに、すごしていくことに抵抗がある。自分の本性は、アウトサイダーなのである。」などと、あえて、ネガティブに自己を規定して、その"おもいこみ"のなかで、くるしみながらも、自己をたもっているような感じがある。
この"おもいこみ"がうまれる根っこには、いったい、なにがあるのだろうか。あるいは、根っこに、病魔がすくっているようでもある。
もう一度いうが、毎日、きまった時間に、職場にいって、しっかりはたらいているのである。十分に、社会に参加しているのである。もう、なにもかんがえずに、だまって、毎日をすごしていけば、よいではないか。どんな人間だって、毎日、なにかしらの不安やくるしみをかかえていきているのだから、自分もそのなかのひとりなのであるとみとめたらどうだろう。だれかとおなじように、日々のなかに、くるしみや、よろこびを感じながら、いきていけばよいではないか。そして、週末には、友人とお酒でものんで、たのしく、わらえるだけで、よいではないか。
しかしながら、そうはおもうが、ぼくは、こんな毎日をすごすことはできない。気がくるってしまいそうな不安があって、いつか、どこかで、精神が崩壊してしまいそうな、こわさがある。自分のそういう"おもいこみ"を、容易には、すてることができないのである。