【大掃除】整理整頓、断捨離ができない人間の欲どうしさ。

いらないものは、すててしまおうとおもって、自分の部屋の掃除をしている。今年のごみ回収の最後の日は、今日の朝であったけれど、おわってから、はじめるというのが、自分らしい。

最近は、いらないものをよくすてている。

仕事では、つとめている大学の運動が、ようやくわかってきたので、要不要の判断が、すこしできるようになってきた。これまでは、なんにもわからなかったから、できるかぎり書類を破棄せずに、机のうえにつんでいたけれど、要不要のことがわかってきたので、いらないものは、すてまくっている。「あとでまとめて整理しよう」などとおもっていたので、その必要がなくなって、なかなか爽快な気分だ。

さて、自分の部屋も仕事とおなじように、すてまくってやるかとおもうけれど、そうは問屋がおろさない。自分の部屋は、要不要の論理で、なりたっていないのである。要不要でいうと、ほとんどがガラクタで、いらないものなのだけれど、その理屈では、すてることができないのである。

ゴミ同然なんだけれど、愛着があってすてられないもの。
今後も、ほぼほぼ手にとることはないだろうけれど、なんとなく、いつかよむかもしれないとおもってしまう本。
インターネットの動画で購入すればよいものを、パッケージの質感にひかれて、ついついかってしまうスケベDVD。
旅行先やまちあるき先の観光案内のパンフレットや利用した施設のパンフレット。
デジタル音源できけばよいものを、わざわざかいあつめた、すきなミュージシャンのCD。

これらをほとんど整理することができずにいる。棚に乱雑にならべたり、床に積ん読したり、箱のなかに、ぶちこんだりしたままになっている。部屋のなかは、まさに混沌としている。

情報は、もはやデジタル化された時代だけれど、モノにのっかった情報とのつきあいかたを生活のなかで、しっかりと経験しておきたいとおもってきた。しかし、本にしても、CDにしても、スケベDVDにしても、どうやって、管理すればよいのか、わからない。10や20のときは、徒手空拳で、管理できたけれど、100をこえると、あつかいかたが、もはやわからない。実力不足だ。

梅棹忠夫は、「分類するな、配列せよ」というけれど、配列しようがない。あいうえお順に、ならべてみても、いざ"そのもの"が必要になったとき、頭のなかには、配列ではおもいうかばず、分類されたひとかたまりのなかのひとつとして、うかんでくる。また、司馬遼太郎梅棹忠夫の本は、著者順に「し」や「う」の場所にならべることができても、『ゲッベルスと私』のように、著者ではなく表題に関心がつよいような本は、どこにならべるべきかわからない。配列するにも、著者順と表題順で、法則がちがってくると、どうにもならない。解決策としては、よんだ順、かった順に配列し、それぞれをスマホの読書管理アプリなどをつかって、日付順に管理すればよいとはおもう。しかし、そうしてしまうと、部屋のデザインだったり、質感的なものが、そこなわれてしまう気がして、このまない。

それで、収拾がつかなくて、どうしようもないので、結局、乱雑に、放置してしまい、混沌とした部屋ができあがってしまうのである。真の解決策は、モノをへらすことだとおもうのだけれど、しかし、それはなかなかむずかしい。絶対的な量をへらすことは、「モノをほかせない自分」のためにできないし、相対的に量をへらすことも、部屋をでかくすることもできないので、むずかしい。

一年ぶりに大掃除をするこの時期になると、毎回、自分の部屋は、欲の皮がつっぱった空間だということに、気づかされる。不要なガラクタをすてることができないんだから、欲どうしい。

ただ、すこしは希望がある。最近は、モノに対する執着が、ややなくなってきた感じもあるのである。来年は、いまよりも、モノから解放された一年になればよいとおもう。

参考書籍として、つぎの二冊をあげておく。
知的生産の技術 (岩波新書)

知的生産の技術 (岩波新書)

情報の家政学 (中公文庫)

情報の家政学 (中公文庫)

『知的生産の技術』は有名だけど、それを補完するものとして、『情報の家政学』もおもしろい。

ひととひととの距離感。

リストカットの跡をみつけたら、初対面のだれであろうと、そんなことはやめなさい、といってあげるのが、ひとの道なのだとおもうけれど、それをいえない、いわないという選択をせざるをえないのが、つまり、うすい関係性しかもちあわせていないことをあらわしているような気がする。これが、現代をいきるわたしたちの距離感なのかもしれないとおもった。

職場の臨床心理士にきいたが、「身をきりきざみたくなれば、二重にした輪ゴムで、バチンとしなさい。」というのが、脱リストカットのひとつの方法らしい。

リストカットの傷は、一生のこる。きみがひとの親になった未来に、かならず後悔するだろうとおもうから、やめておきなさい。」ということは、"あたりまえ"のことだとおもう。

リストカットの不思議は、どうも「ある関係性」のひとには、かならずみえるところに、傷があることだとおもう。これはつまり、その傷をみたひとへのメッセージなのではないだろうかとおもう。ぼくは、わが身を物質的に傷つけることはないので、経験的には、よくわからないが。

【M1グランプリ2019】大阪人的感覚では、ミルクボーイ、ぺこぱ、かまいたち、どれが一番おもしろかったのか。

きのうのM1グランプリについて、おもうこと。

お笑いフリークというわけではないけれど、やっぱり大阪人としては、血がたぎるので、いろいろと寸評もしたくなる。「俺は笑いをわかっている」というおもいこみをもっているのが、大阪人の大阪人らしさであるような気が、多少するのである。

きのうのM1は、たしかにレベルが、たかかった。決勝ラウンドにのこった3組については、かまいたちのみしっていて、ほか二組は、この日はじめてしったけれど、どのコンビが優勝しても、文句がなかった。しかし、グランプリなので、どうしても、順位をつけなければならない。

それで、ぼくは、最後の結果発表まえに、つぎのように、順位予想をした。

1.ミルクボーイ
2.かまいたち
3.ぺこぱ


結果は、予想どおりであった。

これで、ぼくの大阪人としての眼力は、たしかなものであると納得したのだけれど、それはあくまで、外的に評価され価値づけられていることがらに対する値踏みについての眼力の話である。

自己に関することにひきつけると、もうすこしちがう順位づけになる。

きのう、結果発表まえに、まずはじめにおもったのは、「ぺこぱに1位をつけたい」ということである。

思考のながれとしては、まずはじめに、「個人的には、多少荒々しさはあるが、個性的で、あたらしさのあるぺこぱに、票をいれたいとおもうけれど、来年、もっと技術をみがいたすがたをみてみたい気もする。」という直感があり、「総合的に、完璧にちかかったミルクボーイが優勝かなあ。」とおもい、「かまいたちは、中堅すぎるから、漫才がうまくてあたりまえ。M1の理念に反するところがあるから、優勝はダメだ。」という価値判断があった。

M1には、できた当初は、「10年やって、準決勝にものこられへん芸人は、やめよう。つぎの道をさがすきっかけにしよう。」という裏の理念があった。いまはコンビ結成15年までに参加資格がひろげられているけれど、やっぱり若手の大会なんだとおもうのである。

というわけで、かまいたちはなしで、ぺこぱとミルクボーイの二択になる。

ここで、なぜ、ぼくが完璧にちかくおもしろかったミルクボーイより、ぺこぱをおしたかったのかであるが、これが、ぼくという存在にとっては、きわめて重要なことなのである。

ぼくのなかの「大阪人的感覚」では、ミルクボーイとぺこぱであれば、まちがいなくミルクボーイをえらぶ。なぜなら、ミルクボーイは大阪的であり、ぺこぱは、おおきくわけると、大阪的ではなく、東京的な笑いだからである。しかしながら、ぼくは、第一次のおもいつきでは、ぺこぱをえらびたかった。

この「ぺこぱをえらびたい」ということが、まっさきに、おもいうかんだということが、とても重要なのである。

ぼくは、この日、ぺこぱをしって、ぺこぱをえらびたいとおもえたことが、すごくうれしい。ぺこぱは、ぼくのなかの「大阪人の壁」をくずしたのである。ぺこぱの、ああいう感じの笑いは、ステレオタイプな大阪人を気どるひとは、すこしきらうのであるが、そういう大阪人気どりのぼくを、ぺこぱは心底わらわせたのである。

ここに、ぼくの「わたしは大阪人」という象牙の塔はくずれさり、みずからのものさしで、自分の感覚をはかり、感じていることと、かんがえていることを、ぼくは自分の手でつかみとることができるようになったのである。

おおげさのようだけれど、おおげさではない。ぺこぱによって、ぼくは自分のなかのドミナントストーリーが、オルタナティブストーリーへと変化していることを納得したのである。ぺこぱの漫才という体験は、ぼくにとっては、えがたきものだったのである。

ところで、ぺこぱの松陰寺太勇という紫のひとだけれど、身ぶり手ぶりに言動が、ちょっと氷室京介をリスペクトしてそうだから、なおのこと、したしみぶかかった。あれは、きっと「KISS ME」のミュージックビデオを研究しているとおもう。

KYOSUKE HIMURO -KISS ME-

ロックンロール=少年漫画。少年漫画=ロックンロール。

今日は、ジョジョリオンの最新の22巻をよんだ。単行本で、おいかけているので、内容がわけわからんすぎて、前巻から、よみなおすはめになった。

それで、今日は、さっきまで、お酒をのんでいたわけだが、よっぱらってきたら、あつくなる。それが、人間の習性なのだろうか。

あつくなってきたから、氷室京介をきいている。あつい。

あついから、あつい漫画をよみたくなってきた。あつい漫画といえば、少年漫画だ。手元にあるので、あつい漫画は、電影少女幽々白書だ。今宵は、幽白にするか。

氷室京介と少年漫画は、あるところでは、成分がおんなじであるようだ。

そうか、ロックは、=少年漫画なのだ。少年漫画は、=ロックなのだ。

なるほどな。

ジョジョリオン 22 (ジャンプコミックス)

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幽★遊★白書 1 (ジャンプコミックスDIGITAL)

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電影少女 1 (ジャンプコミックスDIGITAL)

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民族学(人類学)をまなんでいます。

一流の民族学者が、なんで、民族誌をかくのか、わかった。

かれらは、調査対象となったひとびとに、感動したからだ。そこに、「我」なんか、あらへん。

その社会の構造をときあかしたいとか、人類についての知識をふかめたいとか、そういうのは、民族誌をかくときには、なかったとおもう。

ただただ、その民族、その社会のひとびとに、感動したから、かきたくなったのだ。きっと、そうだ。

民族学を方法論で、とらえてはいけない。技術ではあるが、技術として、あつかうものではない。

マスターのお店で、串カツをほおばりながら、お酒をのみ、マスターとかたりあっていて、これがわかった。

マスターからきいた、マスターのことを、そんな軽率に、かくことはできないのだ。マスターからの信をうらぎるような、そんなことはできない。

そういう感覚があるにもかかわらず、民族学者は、民族誌をかく。ここには、我なんか、ありっこない。ぼくは、マスターからきいたことをここにかいてはいけない。ここにかくことは、マスターをうらぎることになるからだ。それが、ぼくが民族学者ではない、たしかな理由である。プロではなく、民族学をまなぶことで、自分を社会化しようとしている人間は、自分のことを叙述してはよいが、他者のことを容易にはかいたらいかんのや。

食事の場で、かたりあう~「自由にまなび、自由に発想し、なにかをはじめる」きっかけ~

ご飯をたべながら、自由に、かたりあうという場をもちたい。

場のルールとしては、つぎのものをゆるやかに、もっておきたい。


○知識だけをひけらかすようなことはしない。
自分という存在からきりはなされた知識を蓄音機から、たれながすようなことはしない。


○自分のことをかたる場だが、できるかぎり、ひとりよがりにならないように注意する。
「かたりあう」ことは、「かたり」、「あう」と分解できる。「かたり」とは、自分に根ざすことを表現することであり、「あう」とは、ひろく他者と調和することである。「かたる」ことは自己中心的であり、「あう」ことは非自己中心的であるが、これは対立するものではない。どっちも並列的だし、どっちかがつよいし、どっちもない、こんな感じである。

とにかく、自分というものを知識そのほか、外界の現象ときりはなさずに、かたり、シェアする場である。

勉強会などとしてしまうと、テーマ性がつよくなってしまい、硬直化してしまいそうなので、やっぱり飯をくう場がよいとおもう。もちろん、「自由に、かたりあう場」にも、毎回、ある程度、ゆるやかにテーマ設定はするけれど、お酒でものんで、よっぱらってきたとき、「テーマはあるけど、ない」というような幅があると、ちょうどよい。そういうところに、自由がある気がする。ここに、自由に発想できる場が誕生する気がする。

とにかく、これをもちたいから、ちいさくはじめてはいる。しかし、いまのところ、このほんとうのテーマは、「ご飯をたべたり、お酒をのんだりして、日ごろのストレスからはなれて、息をぬこう」という名目の裏にかくれている気がする。

とりあえず、いまは、職場の教職員をちょっとずつ食事にさそったり、したしき友人とご飯をたべるときに、こっそりと、このテーマをためしに、だしてみたりしているところである。

「こういうものをやりたいんです。どうぞ、ご飯にいきましょう」といってしまうと、硬直化するというか、それをいってしまった瞬間に、自分が興ざめしそうなので、なかなかむずかしい。

結果的に、自然に、できあがっていたというかたちが、ぼくとしては、のぞましい気がする。ということは、やっぱり、「ご飯をたべる」場であるだけで、よいのかもしれない。そういえば、梅棹忠夫らも、「貝くう会」などという食事の場から、未来の研究がはじまり、大阪万博につなげたのであった。
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セカンド・オピニオンをうけたことを患者は、かかりつけの医者に、いいにくい。

患者には、かかりつけの医者に、「セカンド・オピニオンをうけてきました」とは、いいにくい心性があることをしった。

これはなぜだとかんがえてみたが、ひとつは、それが、かかりつけの医者への裏切り行為だと、患者にはおもえるからだ。患者は、自分の身体をあつかう医者を信じていたいものではないだろうか。

もうひとつは、やっぱり情報の非対称性とか、情報が医者に掌握されていることだろうとおもう。

患者としては、より信頼できる医者に、身体をあずけたい。しかし、できるならば、これまでの自分の病状や既往歴をしっている医者にみてもらいたいとねがう。また、あたらしい医者をさがすなか、より変な医者にであったり、病院ごとに、何度もおなじ検査をうけたり、症状を説明したりする気苦労をおもう。このため、患者は保守的になり、かかりつけの医者との関係を現状維持したくなり、セカンド・オピニオンをうけたことをつたえる選択肢がなくなる。

セカンド・オピニオンなどというものができた歴史をしらないので、どういう意図があるのか、これからしらべる。しかし、そもそも、それをしようとおもった時点で、かかりつけの医者との関係性は、ほとんど破綻しているような気がするので、医者と患者の情報の非対称性などをとりのぞくには、もっとべつの切り口が必要だとおもう。

その切り口のひとつとして、ドクターハラスメントはおもしろいかもしれない。患者は、医者よりも、情報的に、よわい立場にいるので、とにかく病状についての意見をはっきりということができるように、まもることが必要かもしれない。信用できない医者ほど、権威主義だから、権威にたいして、患者はもうすこし、つよい味方が必要のような気がする。

権利だ、義務だの話になると、面倒なので、やめよう。

うえの問題を解決するには、カルテを患者の所有にすることだとおもう。患者自身のデータベースを個人所有し、そこに、すべての病院での、あらゆる診察をすべて記録するのである。このようなサービスをどこが提供するのかという問題だけど、むずかしいな。

生命保険会社が、やるわけにはいかないだろうけれど、生命保険業界みたいに、複数の私企業が、独自のデータベースサービスを提供するみたいなしくみはつくれないだろうか。

とにかく、医者だけが、病院だけが、患者の情報をにぎっている状況をどうにかしたい。