ライフワークとして運動を位置づける。そのために、学校の体育=運動というおもいこみを破壊して、運動を自分のリアリティのなかで、再定義する。

いま実践しているようなかたちで、もっとわかいうちから、運動をしたかったなあ、とおもいます。学校の体育は、全然たのしくなかったので、極力目だたないようにつとめたり、やすむ口実をさがしたりして、もったいない時間をすごしてしまったなあと。

いま実践しているかたちってなんだ?というと、つまり、「自分で、かんがえながら、試行錯誤して、工夫して、バッティングフォームをつくっていく」ということです。

【参考:これまでの記事】
hide-himuro.hateblo.jp
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これが、素朴にすごくたのしいし、また、技術者的な思考も、身についていく感じもあって、おもしろい。


自分のバッティングフォームの課題を発見し、映像をみたり、本をよんだりして、解決方法をかんがえる。かんがえついた解決方法を実際にとりいれてみる。そこで、もう一度、できたことと、できなかったこと、うまくいくこと、うまくいかないことなどを抽出して、つぎの課題をさがす。

これって、地でPDCAサイクルをやっている状態です。

この状態は、まさに、「運動をしながら、同時に、知的生産をやっている」ことにちがいありません。すごく効果的だし、合理的だし、そして、主体的だということから、おおげさだけど、ここには人生のゆたかささえも、あるとおもうんです。

「運動をたのしみながら、からだをきたえ、思考をたくましくすることができている状態」は、理想的なかたちだとおもっていて、これができているいまを、ぼくはとても満足しています。


こんな視点から、学校教育での体育のことをすこしかんがえてみました。

目次

落合博満のバッティングの理屈は、教育的価値がたかい

教育関係の仕事(私大職員)をやっている身としては、落合博満流バッティング練習の知見は、学校教育にとりいれてほしいです。落合博満さんの理屈は、学校教育がおろそかにしている「"からだの感覚のとらえかた"と"思考方法"」の実践なのです。

そもそも学校教育の体育や国語は、このようにあるのが、ただしいのだとおもいます。

落合流のバッティングの練習は、ほかの記事にかいたとおり、ただ単に野球がうまくなることにとどまりません。ひろい意味での教育的価値があります。落合博満さんは、『バッティングの理屈』という本を、少年野球や高校野球の指導者にむけても、かいていますが、体育教師や国語の教師など、もっとひろくよまれるべき本だと、ぼくはおもいます。

なぜなら、落合博満流のバッティング練習では、「運動をたのしみながら、からだをきたえ、思考をたくましくすることができる」からです。

運動をライフワークとして、生活のなかに位置づけるために

うえに、かいてきたとおり、運動には思考をきたえる効果もあります。なので、ぜひとも、ライフワークにしたいところです。

学校教育の敗北 「自分という存在のリアリティ」から、きりはなされた学校教育

しかし、おおくのおとなたちが、それに挫折します。

なぜなのか。それは学校教育の敗北の一言につきるとおもいます。

学校教育の体育では、「自分という存在のリアリティ」から、きりはなされたところで、目標を設定されます。

10km走をやりますみたいな得手不得手を度外視した目標設定、やり投げで君は◯mなのでクラスで◯番の順位だみたいに勝手な比較など。

こうやって、運動という、人間の個性をのびのびと成長させることにとって、本来、非常に重要な行為に対して、嫌悪感や苦行感をうえつけられていくんです。

ぼくたちは、そういうおもいこみを破壊して、運動を自分のリアリティのなかでたのしむという、人間にとって根元的な価値観をとりもどす必要があるのです。


そういうかんがえのもと、ぼくはつぎのようなことをしています。重要なのは、枠にかこったようなことを日記的に、ノートやFacebookなどに、かきとめることです。

脱学校教育①打算的な目標をたてずに、たのしむこと

ぼくは、ライフワークのバットスイングは、つぎのような夢をゆるくもっています。これが、たのしむための秘訣だったりします。

結論的にいうと、プロになるわけでもなく、打点を100もかせがなければならない的なノルマもないのだから、目的設定などは不要なのです。苦行と化さないように、ゆるくたのしめるくらいの夢をえがいて、適当に、あそべばよいのです。

この調子で、バッティングの練習をしていけば、35歳くらいまでには、草野球で4番をはれるんじゃないだろうかと、夢をみようとおもう。落合博満さんも、「わたしは、だれよりも、バッティングの練習をした。それが、これだけの成績をのこせたという根拠なのだ。練習は裏切らない。」みたいなことをいっているけど、素人がやる草野球の水準くらいなら、勝負できるくらいの練習量は、こなせるんじゃないかという、希望的観測から、うえのような夢をえがいている。

しかし、まだまだ、さきはながい。まずは、第一歩として、バッティングセンターにいかねばならない。そして、バッティングセンターでは、第一歩の第一歩として、80km/hの速球から、勝負する必要がある。

なんか昨日は、けっこう気もちよく、わりとおもいと感じていたバットをふりきれたので、すこしばかり興奮している。

脱学校教育②思想的なことや精神的なことの変化を現在おこなっている運動という行為に、ひきつけてみる

つぎのように、わりと自由に、思索してみることは、たいせつです。これをしなければ、合理的な思考を身につける効果は、えられないといってもよいかもしれません。

理工系の知恵というか、皮膚感覚を身につけたい。そういう方向性をもちながら、日ごろすごしている。理工系がなんであるのか、定義は、まだできないけど、とりあえず、話をすすめていく。

このごろになって、皮膚感覚的に、理工系の感じがわかった感触がある。いま、ちょうど、村上陽一郎の『科学の現在を問う』をよみおわったけど、こういものをよんでみる気にもなったし、よんでみて、よくわかったという納得した感じがある。

なぜ、理工系の皮膚感覚をすこしばかり、もつことができた感触があるのだろうかと、かんがえてみた。

これも、やっぱり、落合博満が関係してそうなのだ。

落合博満の『バッティングの理屈』という本は、バッティングに関する動作だけでなく、精神的なことに関しても、「技術的に、どう対処するか」というかんがえかたで、つらぬかれている。まったくの技術本なのだ。

これについては、落合博満の経歴が興味深い。Wikipediaによると、つぎのようにある。

「1974年、~東京芝浦電気の府中工場に臨時工として入社。~この頃の落合は、日中はトランジスタラジオの基板を組み立て、夕方から野球の練習をする、という生活を送っていた」

つまり、落合博満は、ただの理屈っぽい人間なのではなく、工学的な訓練をへて、バッティングを完成させた人物なのだと、いえるのだとおもう。

よって、ぼくが、いま、落合博満を参考にしながら、素振りをしていることは、すくなくとも、工学的な知恵や皮膚感覚を身につけることに、なにかしらの影響をあたえていると、いえそうなのだ。

最後に

いってしまえば、運動にかぎらず、自分のリアリティから出発し、自分の頭でかんがえて、自分の納得をたいせつに、まなんでいくことが、そもそも本質的に、重要なことなのです。

ほくが、今回、つたえたかったのは、それは運動にも、あてはまるということなんです。

たとえば、跳び箱をとべることや、とべないことが、問題なのではないのです。そういう結果は、体育においては、重要ではないはずです。

跳び箱がとべたなら、逆上がりはどうだ?逆上がりもできたなら、つぎは、懸垂はできるのか?
跳び箱を10段とべた。つぎは、11段だ、そのつぎは12段だ、…つぎは世界記録は何段だ…

延々とつづく、このようなことは、そのスポーツの愛好家か、職業人として、それにかかわるひとだけが、やっていけばよいことのはずです。

ライフワークとしての運動に、そういうことは不要です。
1段もとぶことができなかった跳び箱をとぶことができるようになったとき、そのプロセスで、手にいれたことが、重要なのです。もちろん、そのプロセスのなかには、とぶことができたという結果も、たとえば、自信を裏づける事実としては重要です。

ぼくは、こんな感じで、運動をたのしめるようになってから、ゆるく1年半ほどたっていますが、5kmをキロ5分ではしれるようになりましたし、筋肉もついてきて、華奢だった体型も、わりと見栄えよくなってきています。そして、この継続できている事実と肉体の変化が、すこし自分に自信をあたえているのも、みのがせないところです。

学校の体育的運動から、はなれることができて、人生がすこし、たのしくなった気がしています。

以上、まとまりなく、おわります。これを参考にして、運動がたのしくなってくだされば、うれしいです。

からだをうごかして、合理的思考を身につける。落合博満のバッティングの理屈から、まなぶ。

運動不足の解消のために、ただ単に筋トレをするだけでは、たのしくなくて、継続できそうにないので、自分がすきな運動を目的もなくとりいれている。

すきな運動とは、野球だ。野球で、ひとりで、すぐにはじめられることといえば、バットスイング(素振り)だ。

素人なので、さっぱり基本がわからないので、とりあえず、がむしゃらに、バットをにぎって、ふっている。しかし、これでは、やっぱりダメだ。いたいところが、次々とでてくるのだ。

今回のテーマは、「右バッターにおける左手の人差し指のいたみをどうとりのぞくか」だ。

【参考:前回のテーマ】
hide-himuro.hateblo.jp

これまでのにぎりかたでは、どうも、バットをふったとき、人差し指が親指によって、おさえつけられて、いたみがでて、満足にスイングすることができなくなる。

このいたみをとりのぞくようなにぎりかたに、改善しなければならない。

そこで、落合博満さんのかまえを、左手のつかいかたに着目して、これまたYouTubeで、フリーライドして、勉強した。

ちょうどよく、年代別の落合さんのバッティングフォームを特集している映像があった。どの年代のフォームでも、落合さんは、左手の人差し指は、しっかりにぎらず、すこしうかしたようにしていることに、気がついた。

下の写真の青丸のところをバットにつけずに、うかしていている感じなのだ。

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内側がみえないので、わからないが、たぶん、赤丸の指先のところで、バットにひっかけている感じだとおもう。年代によっては、左手の人差し指はバットにつけずに、うかしている感じのようにもみえる。

今日はこのかんがえが、バッチリはまった。左手の人差し指は、親指に圧迫されず、全然いたくなかった。

今回のテーマについては、以上。

おわりに、すこし、この間のバットスイングで、気づいたことをひとつ。

落合博満さんは、「バッティングをひとつのメカニズムととらえている。バットスイングは、ひとつひとつの動作が、精密なものであり、ひとつでも、くるうと、すべてがみだれる。」という。

なるほど、たしかに、そうなのだ。

人差し指がいたいだけで、全体がくずれる。スイングすることができないのだ。よく、プロ野球の解説者は、うてなくなってきたバッターに対して、「これ、どっかいためてるんとちゃいますか?」というが、この指摘の意味が、わかってきた。

全体の動作を確立するために、ひとつひとつの動作の正確性をたかめていくといういとなみが、いまは、とてもおもしろい。なぜバットをふるのかときかれたら、こんなふうに、こたえるのが、たぶんしっくりくる。


hide-himuro.hateblo.jp
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なんで、ひとは、こころを病むのか。こころが病むのは、自立のはじまり。

「なんで、いきづらさがあって、こころが病むんだろう」という問いについて、こたえとなる理屈がみつかった気がする。ことわっておくが、これは、日本社会にいきる、わたしたちについての話だ。世界のほかの国々のことは、しらない。

ひとが、こころを病むとき、それは、たぶん、自立しようとするエネルギーが、こころにうまれたときなのだ。なぜ、自立のエネルギーがうまれたときに、病むのかというと、「自立したくない。まもられて、気らくにいきていたい」というようなエネルギーが、おなじくらいのつよさで抵抗してきて、反発しあうふたつのエネルギーの渦に、自我がのみこまれてしまうからだ。

このように、ひとが自立しようとしたとき、自分のなかにいる"もうひとりの自分"が、自立をはばむ。

その"もうひとりの自分"は、往々にして、社会通念などに、つよい影響をうけている。同調圧力にはじまり、自分の生すら他人まかせの無責任。

うまくない屁理屈は、ここまでにして、ぼくが感じる、いきづらさの理屈をかこうとおもう。


ぼくのいきづらさの根は、パターナリズムから脱出して、自立する過程のなかにありそうだ。そんな気がした。

日本社会にはびこるパターナリズムがすごく嫌なのだけど、しかしながら、それは自分のなかにも、しっかりと根づいてしまっている。ここに、自分を信用することができない問題がうまれるのだろうし、いつまでも自立できない葛藤をかかえることにもなるのだとおもう。この宙ぶらりんさは、日本的あまえだともおもうし。

自己更正プログラムとしては、まずは、自立的な人間関係のなかに、自分をおく努力をして、その環境に自分をならしていくこと。そして、自立的な社会が、自分にとって、あたりまえのものとなったとき、自分自身も脱パターナリズムをして、真に自立的ないきかたをする。もちろん、自立的な人間関係を構築していく過程で、自立的ないきかたを、すこしずつではあるが、していくことになるのだけど。

とすると、いまの職場は、おもいっきりパターナリズムな感じがあるので、まあまあ身のふりかたを意識して、関係をつくっていかなければ、それにのみこまれてしまうので、注意する必要があるとおもう。

パターナリズムパターナリズムと急にいいだしたのは、村上陽一郎の『科学の現在を問う』をよんでいて、でてきたからだ。情報社会の項では、梅棹忠夫さんをひっぱってきているので、信用できると、個人的にはそこで判断した。

ところで、ぼくとしては、日本社会は、河合隼雄のいう母性原理のうえに、このパターナリズムがのっかっているから、ややこしいのだとおもっている。

なにかあったら、母親になきついて、すべてを正当化しようとするような、乳しゃぶりのあまえが、同調圧力をうむ。その同調圧力のなかにあって、おなじように母親のおっぱいをすっている父親が、「わしのルール上、おまえはただしい」と、朱印状をあたえる。内輪だけで通用する茶番劇を延々やっているような感じ。

べつにパターナリズムも母性原理のあまえも、ダメだとはおもっていないし、そもそもダメだというほど、わかっていない。ただ、直観的に、バランスがわるいとみている。だから、そのへんのことをみんなで意識して、対話なり議論なりをして、理解をふかめていく方がよいとはおもっている。なぜなら、これらのことについて、対話し、議論するという行為そのものが、自立のための第一歩だとかんがえているからだ。

以上。

↓参考になる本↓

科学の現在を問う (講談社現代新書)

科学の現在を問う (講談社現代新書)

母性社会日本の病理 (講談社+α文庫)

母性社会日本の病理 (講談社+α文庫)

落合博満からまなぶ、「合理的な思考」について。ただしいバットスイング(素振り)を身につける練習をとおして。

バットスイングの上達のための実践や思考についてのブログ記事ですが、合理的な思考方法をからだ全体で、感覚的におこなうことができるようになることをめざしていますので、教育的な価値におもきをおきながら、よんでいただければ、うれしいです。野球好きのかた、野球少年にも、参考になるとおもいますm(._.)m


それでは、本題にいきましょう!
↓↓          ↓↓


ぼくのバッティングフォームは、まだまだ未熟なので、すぐに手の皮膚がめくれてしまう。
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右バッターで、左手の親指つけ根の皮膚がめくれるのは、「手首をはやく、かえしすぎているからだ。」と、部活で野球をやってきた友人から、おしえてもらった。対処方法として、「左右の指の第2関節をそろえて、脇をしめて、かまえることで、ここのダメージは、なくなる。」ということも、おそわった。

二、三日ほど、腸をくずしてしまったため、運動ができなかったので、そのあいだに、落合博満掛布雅之が、バッティング理論を解説した動画をみて、自分の動作のなにがダメなのかをかんがえてみた。

今回のテーマとしては、冒頭にあげた、左手の親指つけ根の皮膚がめくれないようにしたいということだ。

まず参考になったのは、掛布雅之のかまえかただ。バットは、手のひらでにぎるのではなく、指でにぎると、掛布はいう。これで、ぼくの友だちから、おそわった、「左右の指の第2関節をそろえて、脇をしめて、かまえる。」という動作をよりイメージしやすくなった。このとき重要なのは、右バッターにとっての右手は、ギュッとちからいっぱいにぎる必要はなく、そえるくらいのちからでよい。


【ベースボールクリニック 掛布雅之編】#2 バットの構え方

これで、バットのにぎりかたは、なんとなく頭でわかることができた。

あとは、スイングだ。
「手首をはやく、かえしすぎている」という動作を、どのように改善すべきだろうか。

この課題の解決のヒントは、やっぱり落合博満があたえてくれた。

落合博満のバッティングの写真をみると、ふりきったときに、右肩がピッチャーとむかいあうくらいにまで、まえにいっている。
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落合博満の画像は、このwebページから引用
column-sp-baseball-findfriends-jp.cdn.ampproject.org

実際にヒントになったのは、YouTubeに違法アップロードされている動画なのだが、この連続写真でもわかる。いつか削除されるだろうけど、いちおう動画も掲載しておく。

落合博満 ホームランの打ち方 徹底指導&解説編

右肩がピッチャーと正面をむくくらいにまで、軸足の右足から左足にちからをつたえるながれのなかで、腰をひねらせ、両腕をしならせているのだ。ようは、からだの中心を軸にして、からだ全体で、回転運動をしているのだ。

この理屈が、なんとなく、頭でわかったので、「ぼくのスイングは、おそらく回転運動がなく、腕だけにたよっているのだ」と理解した。このために、手首のかえりがはやかったのだ。

今日は、このかんがえで、素振りをやってみた。

結果はどうであろう。
まえは、おもたくて、スイングすることが、きつかった930gの木製バットが、今日は、すこし風をきる音がきこえるくらい、ちからづよくふりきることができた。そして、左手の親指つけ根の皮膚も、あまりこすれないような感じがした。

どうやら、手首のかえりがはやかったのは、腕のちからだけで、バットをふっていたためのようだ。なぜそうなったのかというと、かんがえられるのは、バットのおもさに圧倒され、りきんでいたためかもしれない。

最後に、今日のバットスイングで、みつけたあたらしい課題をしるして、おわる。

どうも、「からだの中心を軸にして、回転運動で、バットをふる」という動作をスムーズにおこなうためには、コンクリートのうえでは、具合がわるいようにおもえる。コンクリートでは、摩擦がつよすぎて、足がうごきにくく、やや固定されたような感じになるのだ。落合博満も指摘しているところだが、回転運動のちからは、最後、自然なかたちで、にがさなければならず、そのためには、軸足ではない方の足は、とめていてはダメで、バットとおなじ方向に、回転させる必要があるのだ。コンクリートのうえでは、これができない。

というわけで、次回は、公園にいっても、よいかもしれない。


【参考文献】

悲観、悲観、悲観。

学校という、おかしな場と制度にしばられているなかで、結婚し、家庭をもち、避妊もせずに、セックスをして、子どもをつくって、というような行為を、よくするなあというのが、一生かかってもとくことができない謎のような気がしている。

よく、そんなことをして、責任をもっているとか、欺瞞にみちたことをいえるなあとおもう。結婚し、家庭をもち、子をなすなんてことは、すべて、エゴじゃないか。まともに、子がそだったとしても、それはすべて結果であるだけじゃないか。

自分の子どもを学校という地獄に、ほうりこまなければならないなんておもうと、上のような行為はできないけどなあ。

最近、悲観のなかにあった、あかるさが、酒をのむと、きえてしまう。精神的に、おちこんでいるわけでも、病んでいるという状態でもなく、ただただ悲観的になる感じだ。

気をうしなうまで、お酒をのんで、そのままいなくなってしまいたい。しかし、気をうしなうまで、お酒をのむことができないたちの人間だから、こうして、悲観的になるんだろうな。

まなぶということだけをきりとれば、人間のピュアなところがうきあがるし、とても自由なのだけど、学校という枠におとしこんだ瞬間、人間のにごった、きたないところがうきでてくるから、ほんとに、こまる。

まなぶということだけ、やっていれば、人間はピュアなまま成長していくのに、学校というよごれた時空をよこぎらざるをえないから、人間は余計な傷をおって、ダメになっていくんだ。

「絶対に、よわい立場にたって、いきていこう」という態度としての素振り。定時で仕事をきりあげて、バットを素振りする日常。

人類の未来のための責任なら、おうことができるように、努力したい。

ずいぶん、おおげさなことをいう。

しかし、人間の理屈より、組織の論理を上位におき、人類の未来から反対の方向にむかっているような組織には、なんの責任もおいたくない。そもそも、おうことができない。

なによりもまず、人間は、個人であらねばならない、とおもうからだ。だから、個人が存在しない組織には、死んでも、抵抗しなければならないとおもう。絶対に、そんな組織に、尻尾をふってはいけないとおもう。

これは、口でいうだけではものたりないから、そろそろ行為でしめさなければならない。ぼくも、そんな年齢に、さしかかってきたとおもう。

今日は、木製のバットをかってきた。
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おもさは930g、ながさは85cmくらい。店員さんいわく、「標準より、すこし、おもい」。
ただ、落合博満は、950~970gのバットをつかっていたというので、これくらいで、ちょうどよいとおもう。
新品が3200円くらいで、かうことができたので、たいへん満足だ。店は、梅田にある「球児先生」というところだ。

これで、また気分があらたまって、素振りをすることができる。
また、あとで、素振りした感触をしっかり言語化しようとおもう。当分は、ひまをしない、よいあそびができた気でいる。

しかし、これは、単なるひまつぶしではない。ぼくはこの素振りを人類の未来のために、意味のあるものだとかんがえて、やっている。

ぼくにとって、バットをふることは、集団や組織からの同調圧力から、抵抗をしめす、ひとつの態度なのだ。

うまくいえないけど、ぼくという存在の全体には、そういうながれがあるのだとおもっている。

落合博満(プロ野球選手)の打撃技術本から、からだの感覚をつかむ方法を実践的にまなぶ。

ちょっと風邪をひいていたので、昨日まで、3日、4日ほど、素振りをするのをやめていた。ずいぶん体調もよくなったので、今日から、また再開した。

からだをやすめていたためか、今日は割合、よい感じでバットをふることができた感触がある。ブンッ、という音がしていたので、とりあえず、よいスイングができているとしておこう。

なぜ、今日、よいスイングができたのかをかんがえている。これは、おそらく、やすんでいたあいだ、落合博満本をしっかりとよみこんでいたからだとおもう。
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本をよみ、打撃の理屈を理解しようと頭をはたらかせながら、そして、同時に、からだの動作をイメージした。今日は、その理屈や、本をよみながらイメージしていたからだの動作をおもいうかべながら、バットをふった。理屈とイメージが、割合うまく、からだをうごかすという行為にむすびつけることができていた感じがある。

具体的に、何を意識して、バットをふったのかというと、両足と軸足の右足のつかいかただ。

バットをかまえるまえに、まず、親指つけ根の内側に体重をのせ、そして、かまえにはいる。もちろん、かまえは落合流である。バットをもった両腕を上体の前方にのばしてかまえる神主打法である。スイングにはいるまえに、まず両腕を胸の方にひきつけ、そして、弓をひくように、右側に両腕をひく。このとき、全体重を軸足の右足にのせる。上体がまえにつっこまないように、しっかりと意識する。頭は、はじめにかまえた位置からうごいてはいけない。ここから、スイングの動作にはいっていくために、左足を前方にふみだす。このとき、左足といっしょに、頭がまえにうごかないように、軸足の右足に体重をのせたまま、腰をおとす。頭のうごきは下方向のみゆるされる。この型になったあとは、一気に、バットを一直線にふりおろす。

あんまりうまく、ことばにすることができた感じはないが、おおよそは落合博満が説明しているバットスイングの理屈を、自分のことばで表現することはできているとはおもっている。そして、からだの動作でも、それなりに表現できていた感触があった。

しかし、課題はのこっている。最後に、スイングする瞬間の体重移動のことが、うまくつかむことができていない。軸足の右足の内側から、左足の内側に、力をうつす感じらしいが、その感覚がいまいちつかめなかった。

最後に。今日、わりとよいスイングができたのは、1年間、ゆるくジョギングをつづけてきたおかげなのだと、ハッと気がついた。しっかりバットをふれるくらい、足腰がきたえられていたのだ。けっこう達成感をあじわっていて、しあわせを感じているのだけど、それは、この点と点が線になったようなうれしさが核にあるためのような感じがする。無為に、とおまわりしていると、変なところで、何かがつながって、たのしくなることがあるけど、これがなんか、すきだ。

落合博満の超野球学〈1〉バッティングの理屈

落合博満の超野球学〈1〉バッティングの理屈