お酒は、自分のポジティブで、ピュアなところだけ解放して、のむもんだ。氷室京介さんが、気づかせてくれた。ありがとう。

ひさしぶりに、氷室京介のライブ映像をみている。かたわらには、もちろん、ハイボールがある。


かっこいい。ため息がでる。一生、みていられるほど、奥ぶかいかっこよさがある。はあ、かっこいい。声も、顔も、しぐさも、精神性も、メロディも、なにからなにまで、全部かっこいい。はあ。


お酒は、こんなふうに、のむもんだ。
なんにもかんがえずに、自分のポジティブで、ピュアなところだけを解放するのが、ただしいんだ。


お酒なんかに、のまれてなるものか!とおもっている。お酒は、ぼくの敵ではない。仲間なのだ。変な抵抗感なんかが、しみついてしまうまえに、ただのおもいちがいなのだということを心身に、気づかせなければいかんのだ。


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梅棹忠夫と司馬遼太郎のこと、そして、ぼく自身のアイデンティティのこと。

司馬遼太郎は、ぼくに司馬史観をあたえてくれた。しかし、司馬は、ぼくに、司馬史観しか、あたえてくれなかった。これは16歳から22歳のころの話である。


23歳のとき、ぼくは梅棹忠夫にであった。梅棹忠夫は、ぼくに、知がひろがっていく世界をあたえてくれた。


梅棹忠夫をしってから、ぼくは、かわった。たとえば、本のよみかたがかわった。司馬遼太郎梅棹忠夫以外の固有名詞、つまり、作者の名を意識するようになった。


梅棹忠夫以後のぼくは、「司馬史観のための知」ではなく、「知のための知」の世界があることをしった。そして、もっというと、「世界のひろがり」のことをしった。


梅棹忠夫と出会ってからのぼくは、梅棹忠夫に出会うまえの自分では、道ばたで、すれちがうことすら、不可能であった人々と、関係をもつことができている。さいわいにも、未完成のぼくではあるけれども、仲よくしてくれたり、気にかけてくれる人々に、めぐまれている。


だから、ぼくは梅棹忠夫のことが、すきだ。いくら感謝しても、ものたりない。梅棹忠夫が、「すでに、しんでいた」ぼくを、いきかえらせたのだ。


ぼくにとって、梅棹忠夫とは、このような、特別の位置にいる人物なのだ。


しかしながら、ぼくの人生においては、司馬遼太郎がいたからこそ、ぼくは梅棹忠夫と、であえたのだ。これは事実であり、ごまかすことのできない真実である。


司馬遼太郎は、ぼくに、はじめは、司馬史観しかあたえてくれなかった。しかし、司馬史観が、ぼくにあったからこそ、梅棹忠夫とであえたのである。司馬遼太郎の思想への理解があったからこそ、梅棹忠夫の思想に、なんのつまずきもなく、はいっていくことができたのである。


梅棹忠夫さんと司馬遼太郎さんの、それぞれの著作などをおえば、たがいに、尊敬しあっていたことは、あきらかである。


やっぱり、ぼくは司馬遼太郎によって、みちびかれている。
そして、梅棹忠夫によって、ぼくはささえられている。


これが、ぼくのアイデンティティの核なのである。



新装版 日本の未来へ 司馬遼太郎との対話

新装版 日本の未来へ 司馬遼太郎との対話

ソロ後期氷室京介の歌声のオススメLIVE作品

氷室京介さんの歌声にひかれて、これから、ますますのめりこんでいく段階のファンのかたは、つぎに紹介するDVDやBlu-rayを、はやめに購入してこくことをオススメします。


氷室京介さんは、クリエイティブな仕事に対しては、すごく熱心なのだけど、わりと商売っけのないひとなので、作品が再版されることが、あまりありません。だから、時間がたつにつれ、高額商品になってしまう傾向があります。中古でさえ、数万になることもあります。かくいう、ぼくも、たかくて、購入できていない作品があります。


①LAST GIGS

これはもう、本当にオススメです。最後のLIVE作品なので、きかにゃ損ってやつです。


②TOUR2010-11 BORDERLESS 50×50 ROCK'N'ROLL SUICIDE

これは、マジで、かうべきです。
ソロ時代後期の一発目のツアーです。

このツアーだけのような気がしますか、氷室さん、歌声がBOOWY時代を彷彿とさせる瞬間があるんです。笑顔も一瞬、わかいころの雰囲気になるときもありますし。

わかいときよりも、相対的に向上したテクニックを自分の意思でおさえて、いきおいにまかせて、つっぱしるような感じがあります。これが、一瞬、BOOWY時代の感じをだすのかなー?とおもったり。

氷室さんのソロのキャリアは、「いかに丁寧に、テクニカルに、表現するか」というところがテーマのひとつにあるとおもいます。あえて、そのテーマをすこし横においたような印象かあります。

「サンキュー 横浜 愛してますゥー!」
そうシャウトするんですが、声がとてもふとく、そして、粒があらいんです。円熟したテクニックをもったBOOWY氷室京介という雰囲気を感じさせる瞬間です。

ちなみに、下のBlu-rayは、ファンクラブ限定版のものなので、二度と再販されることがないので、ほしいかたは、おはやめに。なぜAmazonで販売されているのかは、わたしはしりません。。。


③COUNTDOWN LIVE CROSSOVER 12-13」

正直、この作品がもっともオススメです。このとき、氷室さん、ちょっと風邪気味だったみたいなんですが、それで、かえって、ちからがぬけたのか、めっちゃ声のとおりがいいんです。セットリストも、バランスがいいし。

ソロ時代後期の真ん中くらいのころですが、あたらしい歌声に、なれてきたのか、表現のささくれたトゲがとれていて、シャープで、ききやすいです。

また、ギタリストに、『'B'ORDERLESS』から強力タッグをくむことになったYTさんがくわわります。

これもファンクラブ限定版なので、あるうちに購入する方が後悔しないんじゃないでしょうか。

正直、定価で販売しろよとおもうんですが、数量限定で販売されたものって、プレミア価格がついたりしますもんね。

けど、もし、高額すぎて、断念されるかたも、安心してください。映像はないけれど、下記のサイトで、音源だけなら、安価に購入できます。氷室さんがかかわっているサイトなので、安心してください。
www.himuro.com


とりあえず以上です。
また随時、オススメを紹介していければとおもっています。

酒癖が悪化してきているという現実。

酒癖がどんどんわるくなっているということが、すこしずつわかってきた。自分がお酒に、のまれはじめているということは、もはや目をそむけてはいけない事実のようである。最近は、酒量がふえると、みっともなく悪酔いすることが、ふえている。


その傾向をみると、ひとりでしっとりと、ウイスキーに炭酸水500mlほどの、ほどほどな加減の酒量であれば、割合、おだやかにすごすことができている。しかし、これをこえると、すしずつ、表と裏がひっくりかえって、くろいものが、あふれでてきてしまう。


自分のくろい部分がでてきて、むきだしになっしまう。理性の抑制が、どんどんきかなくなっている。はじめのころは、お酒をのんだときにだけ、日常抑圧され、やり場のなくなった憤りが、怒りという形をとって、あらわれているのだとおもえたが、最近では、どうもすこしずつ、変質している気がする。このまま、ごまかしつづけていると、どこかで、とりかえしのつかないことになりそうだとおもう。


ところで、これをかいていて、ふと気がついたのだが、お酒をのんだ裏の自分が、このように限界状態なのだということは、つまり、日常の表の自分も限界だということではないか。裏の自分が、お酒のちからをかりて、補完しようとしているのは、表の自分のかけているところなのだ。


裏の自分は、泥酔するまで、よっぱらって、そのときの記憶を半分ほどうしなような状態で、なにかモノを破壊したい衝動にかられ、大声でさけび、なにかに対して「死ね」と悪態をつきたくなる。そして、いまや、すこしずつではあるが、その衝動にもとづいた行動を実際におこしはじめている。


表の自分のなにがかけていて、このようなことに、なってしまっているのだろう。表の自分は、一生懸命に落合博満の探究に、はげもうとしていて、けっこうたのしんでいるので、ある意味充実しているような気がしているのだが、これは、いつわりの充実なのだろうか。


あるいは、落合博満への傾倒は、表の世界からの逃避なのだろうか。裏の自分の表化なのかもしれない。このために、バランスがくずれてしまって、はげしく、お酒によっぱらってしまうのかもしれない。こうおもうと、たしかなように、おもえてきた。


最近は、ほんとうに、お酒がうまくない。もう一度、たのしく、お酒の海で、プカプカと、うかんでいられるようにありたい。


バーボンウイスキー ジムビーム 700ml

バーボンウイスキー ジムビーム 700ml

  • 発売日: 2016/07/05
  • メディア: 食品&飲料

いじめがあって、学校にいくのが嫌なのだったら、積極的に不登校になればよい。道理ではないことを強要してくる同調圧力には、「にげる」という選択で、「賛成しない」ということをしめせばよい。

集団から、直接いじめられたこともあるし、ひとりに対して集団の側から直接いじめたこともあるし、集団のなかにうもれて無言でいじめに同調したこともある。そういう背景をもった人間として、いじめということについて、おもうことをつづっていく。。

 

朝日新聞の今朝の朝刊に、「学校再開、でも… 不登校児らに精神的負担感 『いつも以上に目配りを』」という記事があった。

www.asahi.com

 

これをみて、「やっぱり学校になんか、いきたくないよなあ」と、痛切に感じた。

 

いじめられる側に本質的な問題があるのかどうかはわからないが、なぜいじめられるのかというと、いじめられる側の人間の態度のよわさを指摘することがあるようにおもう。「毅然とした態度でたちむかえ」、「これを試練だとおもって、のりこえよう」みたいなことをいじめられている人間にいう人間がいるとおもうが、これには疑問がある。集団対ひとりの力関係で、毅然とした態度でたたかうことなど、ほとんど無理な話ではないか。よほど頑強な精神力がなければ、ひとりで集団に、たちむかうことなどできないだろう。たしかに、毅然とした態度があれば、なめられることもなくなり、よって、いじめられることもなくなるだろうが、この時点でそれを指摘することは、まちがっている。かえって、「まけ根性」をうえつけることにもなりかねないとおもう。

 

集団に対して、ひとりで声をあげることは、至難のことだ。どこのだれが、100人の軍勢に対して、ひとりでいどめるだろうか。孫子の兵法じゃないが、「にげること」こそ、勝利なのだとおもう。だから、不登校という選択こそが、本来は毅然とした態度なのである。一歩だけ、勇気をだして、より毅然とした態度をとることができるのならば、「わたしは、いじめのある"集団の空気"が嫌なので、学校にはいきません。」と、堂々と主張して、不登校をきめこむことが、よいだろう。

 

つまり、ぼくとしては、日本のいじめ問題は、個人の問題として、とらえているかぎり、解決は困難であるようにおもうのだ。いじめは、集団の意識を変化させなければ、解決できない。

 

このあいだ、ニュースで、小学校教育関係者が、「コロナ禍で、体育の授業をできないのは、ダメージだ。たとえば、リレー走は、仲間と一致団結して、なにかをなしとげる達成感などをまなぶことができる。そういうことをまなべなくなるのは、ダメージだ。」みたいなことをいっていたのをみた。一致団結の達成感をあじわうことは、そりゃいいことだろうが、そんなことは体育に限らず、経験できることだろう。「みんなといっしょに、一致団結」という、反対側からみると同調圧力をうむような理屈を安直につかっていることに、気持ちのわるさを感じる。

 

いじめられる側の人間の精神的負担をケアしてあげることも大事なのだとはおもうが、おとなの仕事は、同調圧力のなか、「わたしは、それはちがうとおもいます」と、はっきりと表明することができる空気を醸成していくことだとおもうのだ。もちろん、「みんないっしょさ、仲間さ」という協調性もたいせつなのだが、それは、「しかしながら、わたしとあなたは、まったく別の存在だ」ということをはっきりと認識した上で、意味をもつものなのだとおもう。つまり、個人の尊重がないところに、本当の意味での協調性はないのだとおもう。

 

どうして、日本という社会では、「ちがう」という一言が、こんなにも、いいにくいのだろうか。

こんな本があったらいいな。『自伝 落合博満』。

落合博満さんは、1953年うまれだから、今年で、もう67歳になる。近年であれば、この年齢であっても、英気もあって、十分に元気なひともいるのだが、落合さんは、すこしまえに、からだをくずされたこともあり、みためは、ふつうにおじいちゃんであるという印象さえある。


元気があるうちに、はやく、かれには自伝をかいてもらいたい。出版社のひとは、どんどん提案してもらいたい。日本経済新聞社私の履歴書だったら、ちょうどよいのではないか。とにかく、なんでもよいから、がんばって、落合さんをその気にさせてほしい。


それか、落合さんは現役時代から、節目節目に、割合たくさんの本をかかれているから、それらや新聞・雑誌の過去の記事などを基本とし、かつ、あらためて直接取材をして、評伝的に、だれかがかいてくれないだろうか。


構想としては、たとえば、つぎのようだ。
①少年時代(~中学生)
②青年時代(高校生~東芝府中入社まで)
③社会人時代(東芝府中入社~プロ野球ロッテ・オリオンズ入団まで)
プロ野球入団~三冠王時代(1986年まで)
中日ドラゴンズ時代
読売ジャイアンツ時代
日本ハムファイターズ時代~引退
⑧評論家時代
中日ドラゴンズ監督時代
⑩監督退任後
⑪これからの落合博満


あとがきか、解説みたいな感じで、落合博満評みたいなものを第三者にかいてもらってもいいとおもうが、だれがよいだろう。信子夫人とプロ野球出身のだれかがよいか。


こんな本があれば、めっちゃよみたいな。
②~③など、ざっくりとアウトラインをかくだけでも、めちゃくちゃ重厚で、すごいのだ。

大学中退後、故郷の秋田にかえり、ボーリングに熱中し、プロボーラーめざしたが、自動車の違反による罰金で、受験料をはらえなくなり、プロ試験を断念する。その後、軟式の朝野球に興じるなか、すてきれない野球へのおもいが再燃する。高校の先生のツテをたどり、東芝府中に臨時工として入社し、野球部員となる。ここから数年間、9時~17時で、はたらき、トランジスタラジオをつくりながら、勤務終了後から午後10時まで、野球の練習にあけくれる。メキメキとちからをつけていき、野球選手として頭角をあらわしはじめ、都市対抗野球に出場することになる。ちなみに、余談だが、社会人時代、長嶋茂雄引退試合を観戦するために、仕事をさぼって、後楽園球場まで、足をはこんでいる。


いっそのこと、自分でつくるかな?

運動は、心身だけでなく思考をきたえる。

運動という行為は、からだだけでなく、こころの鍛練でもある。そして、最終的には、シンプルな思考を身につける基礎にもなる。なぜ、シンプルな思考につながるのかというと、きたえあげられたこころは、なやみ、まようことがなくなり、ブレにくくなり、思考の邪魔をしなくなるからだ。


以下、今日の運動の日記である。
ぼくのからだと思考とこころのながれの記録である。


右うちで310回、左うちで50回、合計で360回、素振りをした。45分間、おこなった。その後、約5kmを26分かけて、はしった。


その日の体調にもよるのだろうが、よい感触で、素振りができない。きのう、おとといも、おなじように、しっくりこない感覚があった。職場に出勤するという生活が、すこしずつ、もどってきているために、その分だけ疲労がたまり、からだを満足にコントロールすることができないのかもしれない。


スイングを200回したときに、つぎのメモをのこしている。
「なんか、ただふっているだけに、なりつつある。からだもブレるし。」


また、250回目のあとには、こうもメモしている。
「一度、落合博満神主打法から、はなれよう。清原の一年目の腕の使い方、きれいだし、そっちの方が感覚的にあっているかもしれない。」


そのあとは、110回、スイングしたが、ほとんど、よい感覚はなかった。ずっと、からだが、いうことをきかない感じだった。とにかく、しんどかった。


ただ、希望はあった。最後の20回くらいになって、ようやく、よい感触があった。左足をふみこんだとき、タメをつくることが、もしかしたら、たいせつなのかもしれない。


しかし、やっぱり今日はダメだった。マメがつぶれて、いたくて、スイングすることができなくなったので、よい感触をたしかなものにするまえに、やめるしかなかった。


この程度で、ダメになる自分は、やっぱりまだまだだ。落合博満さんは、毎日、9時から17時で、トランジスタラジオをつくりながら、勤務終了後、22時まで練習をしていたというが、しんじられへん。やっぱり、すごい人間だ。めざすことは勝手だが、現実的でない目標をかかげていることに直面して、夢からさめてしまうと、おちこんでしまう。


とはいうものの、おちこんでいては、この"あそび"が、だいなしになってしまう。あそびの世界には、はじめから、意味などないのである。そうおもいなおして、はしることにした。


どうも、人間は、しんどいことから無意識的ににげるいきもののようにおもえる。というのも、素振りをしていると、下半身にちからがないことが原因で、からだがブレていることはわかるのだが、下半身をきたえることは、しんどいことだから、そこから目をそらして、たのしい素振りだけやって、よい気になっているふしがあるのだ。


はしることは、気もちがよかった。はしっていると、無分別の分別であること、つまり無心のようなところに精神をもっていくことができる。最近は、特に、そうだ。この状態になったとき、ものごとを先入観という色眼鏡なしで、シンプルにとらえることができる。