野球をはじめて半年ほどたった現在地。

2月末に、はじめたころは、30回ほどで、ヘトヘトになっていたが、5月には、とにもかくにも、一度に500回は、スイングできるようになった。

 

この進歩に、有頂天になっていたが、すぐさま、壁にぶちあたった。技術的なことをかんがえはじめると、100回も満足にバットをふることができなくなった。500回の素振りは、体力だけで、がむしゃらにやれば可能だが、知力をまじえると、途端に難易度はたかくなることがわかった。

 

技術的なことをかんがえると、930gの木製バットでは、ぼくのからだは、バットにふられていることがわかった。からだの軸を意識して、スイングすることは、がむしゃらなスイングとくらべて、何倍ものエネルギーを必要とした。ようは、体幹に、ちからがなくて、バットにふられていたのである。これには、素振りをはじめて、4ヶ月ほどがたった7月ころに、気がついた。

 

ちょうど梅雨の時期だったので、七月なかばから、筋トレをはじめた。筋トレをはじめたきっかけは、落合博満さんの『なんと言われようとオレ流さ』であるが、具体的なトレーニングの内容で参考にしたのは、なかやまきんに君YouTube「きんにくTV」である。この日から、毎日かかさず、きんに君のYouTubeをみて、腹筋、足腰、胸筋のトレーニングをおこなっている。プラスアルファとして、約20mの短距離ダッシュもおこなっている。

 

筋トレをはじめて、1ヶ月弱たったわけだが、まちがいなく、体幹に、ちからがついてきた。がむしゃらに、素振りをやってきた、この4ヶ月がなんやったんやとおもうほどである。わずか1ヶ月であるが、より合理的に肉体をきたえた結果、からだの芯に、バットをふるパワーがついてきたことを実感している。930gの木製のバットを、からだの軸がぶれずに、かるくスイングできるようになってきた。かるくスイングしても、90km/hの準硬式球を推定60mほどは、とばすことができている。

 

今後の目標としては、からだ全体のパワーを何倍かに、底あげしていくことである。からだの芯からパワーをつけていくことである。マン振りすることなく、いまの調子で、りきかんなく、かるくスイングするかたちを維持しながら、バットスイングのスピードをあげていくことである。

 

これが、ぼくのバッティング思想の現在地である。

 

付記するが、ここ2、3日、素振りをすると、右手首をいためてしまうことがあるのは、体幹のパワーに、手首のパワーがついていっていないあかしなのかもしれない。

 

 

 

なんと言われようとオレ流さ
 

こころとからだのこと。スポーツ選手のメンタリティーからの、あるいは思想家としての落合博満からの影響。

こころのことをかんがえるうえで、スポーツ選手の意識のありかたは、参考になる。メンタルトレーニングみたいなものも、ずいぶんと浸透しているので、あたりまえの話とはおもうが、実際に経験した感触として、そうおもうのである。


ぼくが、からだをうごかすことに、こりはじめたのは、自分のこころのこととむきあう過程で、河合隼雄の本によって、竹内敏晴という人間にであったからである。竹内の思想を説明するには、ぼくはちからが不足しているが、ひとことでいってみると、それはつまり、「こころとからだは、二にして一である」というアプローチである。こころをいやしていくには、からだとのかかわりに着目する必要があるのである。


竹内敏晴の思想を実践するようになったのは、2年前のちょうどいまごろである。はじめは、からだとのかかわりをふかめていくといっても、はしることだけしか、していなかった。1年ほどたって、10kmもはしれるようになり、多少あきてきたところもあったので、バットをふることをとりいれはじめた。


なぜバットをふりはじめたのかという理由はわかる。野球がすきなのと、手もとにバットがあって、すぐにはじめることができたからだ。そして、こうやって、あらためて整理しようとすると、竹内敏晴の思想を実践している道中なのだということもわかる。


しかし、なぜ落合博満なのだろうか、ということは、いまいちわからない。世代的にいえば、イチロー松井秀喜であってもいいはずである。


ぼくは、おそらく、思想家「落合博満」に、ひかれているのである。記憶をたどれば、2003年秋の中日ドラゴンズ監督就任会見で、はじめて落合博満という人間をしったのであるが、そのときから、かれが野球人として何者であるかもわからずに、なんとなくすきだった。阪神タイガースファンなので、積極的には応援できなかったが、ずっとなにかを感じとっていた。


このようにかんがえると、はじめにかいた、「こころのことをかんがえるうえで、スポーツ選手の意識のありかたは、参考になる。」ということは、すこしいいかたをかえなければならないかもしれない。単に、ぼくが、思想家としての落合博満から、影響をうけているだけなのかもしれない。


最近になって、ぼくはつぎのような意識をもつことができるようになったのであるが、それがまさに、落合博満的なものなのである。


「2022年に、プロ野球選手になることをめざしている。

今年から、はじめたことなので、まず3年をひとつのくぎりとする。ふつうの野球選手たちであれば、高校3年間をへて、プロ野球のドラフトにかかるか、大学野球、社会人野球にすすむかという時間軸があるので、それを目安にしている。

プロ野球選手になろうが、なるまいが、ここでつみかさねたことは、絶対に自分を裏ぎることはないと確信している。まだ半年とすこししか、やっていないが、自分の人生にとって、かならず重要な経験になると、すでに手ごたえをつかみつつある。」


この話には、オチはないが、ひとつだけ感想をいっておきたい。


ぼくの精神はいま、非常に健康的になりつつあると実感している。これは、河合隼雄、竹内敏晴、落合博満のながれで、かれらの思想にふれて、それを実践していることの結果なのである。


落合博満 バッティングの理屈―――三冠王が考え抜いた「野球の基本」

落合博満 バッティングの理屈―――三冠王が考え抜いた「野球の基本」

  • 作者:落合 博満
  • 発売日: 2015/07/03
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
コンプレックス (岩波新書)

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ことばが劈(ひら)かれるとき (ちくま文庫)

ことばが劈(ひら)かれるとき (ちくま文庫)

三浦春馬の死をうけて。自殺したくなったら、とにかく、すべてなげだして、にげろ。

三浦春馬が自殺しましたが、それをうけて、責任感がつよいことは、あまりよくないことだとわかりました。


「ああ、自分は、もう死んでしまいそうだ」という信号をキャッチした瞬間に、それから、どこまでたえられるかを注視しつづける。「もう無理だ」とおもう二歩三歩、手まえで、すべて、なげすててしまう。そうやって、そのしんどさの根をたちきると、なんとかいきのびることができるとおもう。


死んでしまいたいほどのしんどさの根は、だいたい仕事か人間関係にある。命以上にたいせつなものはないのだから、死にたくなれば、その原因となっているものから、にげればよいのである。


この意味で、仕事なんか適当にやればいいとおもうし、人間関係もゆるく、ええ塩梅でつきあうくらいでよいとおもう。


死ぬまで、かかえこんで、なにかをやる必要なんかない。ひとりの人間の行為なんか、ほとんど無意味なのである。


「もう無理だ」とおもいはじめた瞬間から、かんがえるべきことは、いかにして、いまの状況から脱出するかであるが、その方法としてベストなのは、全部すてて、姿をくらますことである。私度僧的に、勝手に出家すればよいのである。


現代社会の仕事も人間関係も、全然、人間の生とむすびついたものではないのだから、適当にやればいいのである。人間の生とむすびついた仕事や人間関係であれば、自死しようなどとはおもわないはずである。




死とむきあうことは、たいせつなことであるが、死んでしまったら、どうしようもない。鈴木大拙の『仏教の大意』は、死にそうなひとが、いきはじめるために参考になる本である。

仏教の大意 (角川ソフィア文庫)

仏教の大意 (角川ソフィア文庫)

あいみょんと喫茶店。

コロナさわぎがはじまるまえ、休日の朝は、10時ころから、喫茶店にいっていた。モーニングセットをたべながら、本をよむという習慣ができあがりつつあった。

 

その喫茶店では、ラジオがながれている。とにかくよく、"あいみょん"の歌、とくに「マリーゴールド」がながれていた。そのラジオの番組が、なにであるのかはわからないが、FM802だということはわかっている。


あいみょん - マリーゴールド【OFFICIAL MUSIC VIDEO】

 

あいみょんなんかに、はじめは興味はなかった。しかし、毎週、おなじ時間帯に、おなじ風景のなか、彼女の歌をきいていると、いつのまにやら、きき心地のよさを感じはじめた。ほかにも、いろいろと、あいみょんの歌がながれていたが、とりわけ「マリーゴールド」が印象的であった。

 

あいみょんは、まず声がよい。最近の商業的にうれている歌手にはめずらしく、自分の声をつかんでいるようにおもう。多少かっこつけた感じのところもあるが、基本は背のびをせず、無理のない歌声であるようにおもう。それが心地よい。また、曲調については、どこかなつかしさがあり、喫茶店のラジオからながれてくる音楽として、ふさわしい気が、なんとなくする。スターバックスみたいなところでは、すこしちがうとおもう。

 

マリーゴールド」に関していえば、とりわけ歌詞がよい。そのよさは、解釈をとやかくいうものではないとおもう。彼女の等身大をうたっているという、その"感じ"がよいのである。歌詞の意味などをとやかく詮索せず、きく側も、等身大の自分で、からだ全体をはたらかせて、彼女の歌を感じて、たのしめばよいのである。

 

なにげなくきこえてくる、あいみょんの等身大の歌は、自分自身でかたちづくっていく生活のなかに、すこしばかり、いろどりをそえてくれていたようである。こんなふうに、あいみょんの歌をきくように、肩のちからをぬいて生活ができることこそ、しあわせなのだとおもう。ぼくにとって、あいみょんと喫茶店は、その象徴のひとつなのだとおもう。

 

 

マリーゴールド

マリーゴールド

  • アーティスト:あいみょん
  • 発売日: 2018/08/08
  • メディア: CD
 

 

サッカーの安彦考真選手という人間に、感動した。

安彦選手、めっちゃかっこいい。

 

「やらない」っていう消極的な決断と実行をくりかえしてきたぼくとしては、胸をうたれるものがある。

 

「常日頃から10回素振りをするよりも1回バッターボックスに立つことが大切だと思っているんです。」

カズに憧れブラジルへ渡った安彦考真が40歳でJリーガーを志した理由 - Athlete Channel(アスリートチャンネル) - gooスポーツ

 

たしかに、一度やってみて、わかることって、すごくおおい。素振りを500回やれるようになって、いいきになっているところで、バッターボックスに1回たってみれば、1球もバットにボールがあたらずに、三振してしまうというのが、現実だったりする。ここで気がつくことは、やっぱりおおい。

 

技術の不足もだが、「やらない理由」をかんがえはじめる自分のこころのよわさが、やっぱり目につく。

 

ひとは、あきらめるために、バッターボックスにたたない理由をかんがえるための時間のばしとして、10回の素振りをやることが、割合あるのだ。そういうのは、あまりよくないよなあとおもう。

 

自分のちからでは、どうにもならないことに対しては、あきらめが肝心だが、自分のちからで、どうにかなりそうなことについては、あきらめは愚策なのだというわけだ。

あきらめは、たぶん、二種類ある。

 

スポーツ選手の思考とか、メンタルとか、おもしろい。

最近は、ずっと落合博満さんを中心に、勉強しているけれど、野球選手とはまたちがう、思考が、安彦選手にはあった。サッカー選手っぽいのだろうか。

 

サッカー選手のそれも、実際に手でふれながら、経験的に、まなんでみたい。落合博満に匹敵するほどの、オススメの本は、サッカー選手の場合、だれがかいているだろう。

【新聞をよむ④】くらしをささえる技術者のこと。アフリカとリープフロッグ。

朝日新聞7/20朝刊】


新型コロナウイルス感染者をうけいれる病院の7割をしめる公立・公的病院が、経営難におちいっている。コロナ対応の最前線をになうが、人手不足などの理由から、収益がみこめる健康診断や救急外来をけずって、対応している。このような病院自身の稼働域の縮小があるなか、ひとびとが受診をひかえるうごきもあり、外来患者が減少し、おおきな赤字となっている。「この調子だと秋にも資金が底をつく」と病院事務長はいっており、現場では、地域の医療体制が崩壊しかねないとの懸念がひろがる。


人手不足というのが、気がかりだ。なんで、こんなことになるんだろうか。いつから、こんなに体力のない国になってしまったのだろう。


やる気もなくて、あそんでくらしたいぼくがいうのもなんなのだが、医療など、人間のくらしにかかわる仕事につくひとが、へっているのは、たいへんな問題だとおもう。ぼくみたいな人間がふえてしまっては、いけないんじゃないだろうかとおもう。


ぼくは今年、部署異動があってから、電気の保安をやっている技術者といっしょに仕事をするようになった。かれらの仕事があって、ぼくは日ごろ、何気なく冷房をつけて、すずんだり、パソコンをいじって仕事をしているのだということがわかった。さっぱりわからない電気装置が、日ごろ何気なくつかっている100vの電気をつくっているのだが、それは技術者がいて、成立しているのだ。


医療もそうだが、電気の技術者たちのようなひとびとによって、ぼくたちのくらしは、ささえられているのだ。このようなひとびとが、すくなくなってしまうということは、社会の体力の減退なのだとおもう。これはたいへんなことだ。迷惑系YouTuberなどというやからがいるみたいだが、「有名になって、お金をもうけたい」などということは、余裕のある社会だから、成立するということを理解しておこう。


○高度に発達したシステムがあっては、あたらしいシステムを導入する際に、かえって、それが障害になるのかもしれない。まえのシステムをゼロにするわけにもいかず、あたらしいシステムとの、つじつまあわせに苦労することが、おそらくある。


アフリカでは、対新型コロナウイルスで、最新技術が、一気に普及していっているという。たとえば、給付金の入金には、スマートフォンのショートメールをつかった送金サービス「M-PESA(エムペサ)」のアカウントがつかわれている。これによって、「銀行の長蛇の列にならぶ必要もなくなり、また、現金のときのように、腐敗した公務員に賄賂をもとめられるおそれもなくなった」と、最新のテクノロジーによって生活が一変したことを市民はよろこんでいる。


このように、経済発展ででおくれたアフリカ諸国で、一足とびに最新技術が普及する現象を「リープフロッグ」という。たしかに、なにもない状態であれば、あたらしいシステムをぶちこんでも、プラスにはなっても、マイナスの影響はすくないだろうから、リープフロッグということが成立するようにおもう。


危機に際しては、かえって、成熟していることが、あだとなるのかもしれない。


とはいうものの、アフリカは独立してから、すでに半世紀以上たっているのだから、社会は十分に成熟しており、脂ののった若者のような体力がある社会なのかもしれない。

人間関係のこと。親であっても、他人は他人。

「あなたとわたしは、おなじではないのに、わかりあえる」から、気もちがいいのであって、「あなたとわたしは、おなじだから、わかりあえる」ということであっては、気もちがいいものではない。後者のような人間の特徴は、「おなじ」という輪から、はずれたものを排除する性質をもっているということである。ぼくは、そういう性質の存在はみとめるが、とにかく、キモいとおもうから、ちかづきたくないので、ゆるやかに距離をとって、すみわけることをめざす。


ぼくは前者のようなスタンスをとる人間だから、たとえ親であっても、他人であるとしている。他人であるといえども、いっしょにすごした時間のながさや、かかわりあいのふかさによって、愛情もうまれ、かけがえのない人間だと、おもうのである。けっして、血や家の論理で、この関係はなりたつものではないとしている。ひととひととのつながりは、関係のながさやふかさや質の総合として、あらわれてくるものなのである。これはぼくの性質である。


ところで、「あなたとわたしは、おなじだから、わかりあえる」とおもっているような人間は、うえのようなぼくの性質に対して、嫌悪感をいだくようである。この嫌悪感に、ぼくは排除の論理があることをみとめるのであるが、かれらは、素朴にそれを否定し、みとめようとしないのである。重要なのは、ぼくは、排除の論理をもつかれらの性質をちがうとはおもっても、その存在をみとめているが、かれらはぼくのような性質をみとめようとはしないことである。


心身二元論的な発想は、もう限界にきているのだとおもう。結局のところ、二元論では、排除の論理にいきつかざるをえないとおもうのだ。二元論では、たとえば、今西錦司などがいっている、「ふたつのものは、二にして一」というような仏教的発想を理解することができないから、否定する。否定するだけで、おわる。なんなら、「あいつは、とちくるって、とんでも科学にはしった」などという。ぼくは、これを非常に不健全なかんがえかただとおもっている。


話が余談にながれはじめた。


つまるところ、ぼくは、人間の関係性は、関係のながさやふかさや質に、距離感という係数をかけあわせたものの総合のようなものと、とらえているのである。前近代では、身分制度や家や土地からの拘束がつよかったため、この係数が固定的であったが、現代においては、流動的である。この係数が流動的であることによって、近代文明での人間関係は、バリエーションにとんだものになっているのである。このようにかんがえなければ、疎遠になっていた関係が、意外なことがきっかけに修復するということや、偶然であったふたりが恋愛するというようなことなどが、説明できないとおもう。


近代以降をいきるわたしたちは、実際のところは、ほとんど意識することなく、距離感という流動的な係数をかけて、他者との人間関係を構築しているのだが、前近代的身分制度や家族制度のなごりにとらわれ、それを意識しすぎることによって、「人間関係は固定的である」というおもいこみをかかえこんで、いきているのだろうとおもう。