三浦春馬とALS患者嘱託殺人の被害者。自死する自由があたえられていたひとと、あたえられていなかったひと。

ALS患者嘱託殺人事件の特集が、朝日新聞でくまれている。さきごろの嘱託殺人事件について、識者などの意見や朝日新聞をふくむメディアの編集のしかたをみていると、嘱託殺人という手段をとって自死した当人の不在のところで、議論がすすめられているような、気もちのわるさが、多少ある。


ぼくとしては、三浦春馬にはあたえられていた自死する自由が、ALS患者にはあたえられていないというところに、多少の不平等を感じる。難病であっても、いきいきといきていけて、自殺したいなんておもわない社会をめざすのは、ただしい道なんだろうとおもう。しかし、いまはまだその道中だ。混沌とした社会で、「いきろ」とだけ、理想論をぶつのは、なんかちがう。


自死する自由についての議論がないと片手落ちの気がするのだ。しんでしまいたいとおもいなやんでいる当事者の意見や気もちをもっとひろいおこして、社会的に議論をふかめていく方が、だれも自分から命をたつことのない社会への近道のようにおもうが。

自転車にのった少年と文化のはじまり

9月4日金曜日午後3時ころ、炎天下のなか、脇道で素振りをしていたところ、自転車にのった小学3年生くらいの少年が、その道をとおりぬけるため、ぼくの方へとむかってきた。ぼくは少年がとおりすぎるまで、素振りをやらないでおくために、少年のすがたを目でおった。そのとき、少年と目があった。不意なことだが、たがいに、かるい会釈のような、あるいは目くばせのようなしぐさをした。


少年は、ぼくのこと、つまり、素振りをする男性のことが気になったのか、このあと、二度、三度と、目のまえを自転車でとおりすぎた。三度目には、目のまえをよこぎる瞬間に、ぼくの方をみて、「がんばってください!」と、ややかぼそく、一声かけていった。ぼくはそのかけ声に応じて、「ありがとう!」とかえした。


一瞬のやりとりだったが、印象的なできごとだった。ぼくはこの経験から、文化のはじまりをみたような気がしている。また、少年にとっては、野球がある風景として、このまちが印象づけられたかもしれない。

実家暮らしでも、自立できる。一人暮らしをしたから、自立できるというわけではない。

実家ぐらしは、けっして親のすねかじりなどというネガティブなものではないとおもう。日本という風土の特性をかんがえると、しっかりと親との関係をつくって、実家ぐらしできるようになることにこそ、ただしく自立することができたといえるかたちがあるとおもう。



実家にいながら、半自活

仕事をおえてから、家にかえって、洗濯をする。夕食をたべたあとは、皿あらいをする。休日は、家の掃除をする。たまに、スーパーで食材をかって、夕食を自分でつくる。


これだけのことをやっておれば、すでに半分は自活していると、いえるのではないか。実家ずまいであろうが、ひとりぐらしであろうが、どっちでも、十分に、自分のちからで生活するという経験はつめることがわかってきた。


だいたい、ひとりぐらしというライフスタイルに対して、ぼくはそんなに関心がない。父親は、たいした人間ではなく、しゃべると9割が不愉快な人間なので、かれといっしょに生活することで、ストレスがたまるが、共同生活のおかげで、時間的にも、金銭的にもメリットがあるので、それもこみで、実家ぐらしは、積極的にアリだとおもっている。


また、実家ぐらしには、積極的にたのしいといえることもある。仕事をおえて、帰宅したあと、母親としゃべりながら、夕食をたべることは、たのしい。母親は、人間的におもしろいのである。これは、ひとりぐらしで、黙々とすごしているより、うんと、ゆたかな生活だろう。

地縁的なむすびつきと精神的な自立についておもうこと

人間の精神は、土地にむすびついているものではないし、同時に、土地におおきく影響をうけて、存在しているものだとおもう。人間の精神は、土地にむすびついているともいえるし、むすびついていないともいえる。つまり、そんなに簡単に、わりきれるものではないのである。


なにがいいたいかって、心身二元論はまちがっているということである。肉体と精神とが、別々に存在しているものだととらえていては、人間のことは、ほんとうにはわからない。


このようにかんがえるのは、実家にいながら、精神的にも、実際の生活としても、自立しはじめた経験にもとづいている。わざわざ家や土地とのつながりをたたなくても、人間は自立することができると、実感している。


ものの本によると、たとえばイギリスなどでは、高校生くらいから、子どもは親元をはなれて、寮生活をはじめる歴史があるという。これは自立のための訓練であるということだが、心身二元論の立場にたった発想であろう。ヨーロッパの人間にとっては、それが歴史的に、ちょうどよいということがわかった方法なのかもしれないが、日本では、あっていないだろうとおもう。


日本的風土で、うまれそだった人間は、土地とのつながりをたたなくても、自立できるのである。逆にいえば、土地とのつながりがなければ、自立できないともいえるのである。


ただでさえ、土地とのつながりが、希薄な現代社会なのに、無理やり努力して、ひとりぐらしなどをはじめて、自立した個人をもった人間がそだつわけはないだろうとおもう。


こころがやんだひとがおおいのは、このあたりに鍵があるとおもう。

はじめて、なまの魚をさわった。サンマをグリルで、やいたのである。

たぶん、はじめて、なまの魚をさわった。弾力のある感触に、いきものの感じがあって、印象的だった。いきものといったが、すでに、しんでいるのだが。


いままで、なんにもしてこなかったことを痛感するような、はずかしい話だし、単に母親が夕食のため、かってきてくれていたサンマを自分でグリルにほうりこんで、やいただけの話だ。しかし、印象的だったことにはちがいなく、また、あたらしい経験をしたわけだから、そのよろこびとたのしさをかみしめることは、当然のことだろう。


余談だが、この醤油をサンマにかけると、とてもおいしいです。この醤油は、たまごかけご飯のときにも、オススメです。

さらに余談。
たまごかけご飯をするときは、かつお醤油に、「ごま油」をすこし、かけてください。史上最高のたまごかけご飯になりますよ。

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他者のみならず、自分にもやさしくあることで、かえって、だれかを傷つけてしまうという矛盾。

ひとに対して、やさしくありたいのだが、そうあるためには、まずは自分に対しても、やさしくある必要がある。しかし、ここで、比較的おおきな壁に、ぶつかる。自分に対して、やさしくあるために、まっすぐに自分にむきあうと、だれかや自分を傷つけるような行為をせざるをえなくなるのだ。


ぼくにとって、自分にやさしくあるということは、自分の気もちを抑制しないことだ。しかし、感情的なことをむきだしにすることは、だれかを傷つける結果になりやすい。


ぼくは、やっぱり、ひとの気もちが、よくわからない人間みたいだ。ひとにやさしくあるという目的に対して、行為がちぐはぐであり、結果がついてこないのは、ひとの気もちがわからないからなのだろうとおもうのだ。


自己の中心に、空白というか、ひっかかりがある。どれだけまともに、ひとびととかかわりあえるようになっていても、最後のところで、壁がある。その壁は、透明のもので、一見では自分にも、その存在がわからない。どれだけ関係がふかまっていても、結局、「うちとけたふり」をしているだけのような、孤独感がある。この孤独感は、他者の問題ではなく、自分の自分自身に対する距離感の問題なのだとおもうが。


お盆やすみは、9日間もあった。明日からまた仕事がはじまる。


やすみが、ながくつづくと、内省的になる。ふと、自分をみつめてみると、なにもないことに気がつく。なやんでいるというようなことではない。自分には、なにもないんだなあという事実に、さびしい気もちになるのだ。


しかし、明日からは、ふたたび、毎日の生活を精一杯いとなんでいくだけだ。なにかがあろうが、なにもなかろうが、たいしたちがいではない。

野球をはじめて半年ほどたった現在地。

2月末に、はじめたころは、30回ほどで、ヘトヘトになっていたが、5月には、とにもかくにも、一度に500回は、スイングできるようになった。

 

この進歩に、有頂天になっていたが、すぐさま、壁にぶちあたった。技術的なことをかんがえはじめると、100回も満足にバットをふることができなくなった。500回の素振りは、体力だけで、がむしゃらにやれば可能だが、知力をまじえると、途端に難易度はたかくなることがわかった。

 

技術的なことをかんがえると、930gの木製バットでは、ぼくのからだは、バットにふられていることがわかった。からだの軸を意識して、スイングすることは、がむしゃらなスイングとくらべて、何倍ものエネルギーを必要とした。ようは、体幹に、ちからがなくて、バットにふられていたのである。これには、素振りをはじめて、4ヶ月ほどがたった7月ころに、気がついた。

 

ちょうど梅雨の時期だったので、七月なかばから、筋トレをはじめた。筋トレをはじめたきっかけは、落合博満さんの『なんと言われようとオレ流さ』であるが、具体的なトレーニングの内容で参考にしたのは、なかやまきんに君YouTube「きんにくTV」である。この日から、毎日かかさず、きんに君のYouTubeをみて、腹筋、足腰、胸筋のトレーニングをおこなっている。プラスアルファとして、約20mの短距離ダッシュもおこなっている。

 

筋トレをはじめて、1ヶ月弱たったわけだが、まちがいなく、体幹に、ちからがついてきた。がむしゃらに、素振りをやってきた、この4ヶ月がなんやったんやとおもうほどである。わずか1ヶ月であるが、より合理的に肉体をきたえた結果、からだの芯に、バットをふるパワーがついてきたことを実感している。930gの木製のバットを、からだの軸がぶれずに、かるくスイングできるようになってきた。かるくスイングしても、90km/hの準硬式球を推定60mほどは、とばすことができている。

 

今後の目標としては、からだ全体のパワーを何倍かに、底あげしていくことである。からだの芯からパワーをつけていくことである。マン振りすることなく、いまの調子で、りきかんなく、かるくスイングするかたちを維持しながら、バットスイングのスピードをあげていくことである。

 

これが、ぼくのバッティング思想の現在地である。

 

付記するが、ここ2、3日、素振りをすると、右手首をいためてしまうことがあるのは、体幹のパワーに、手首のパワーがついていっていないあかしなのかもしれない。

 

 

 

なんと言われようとオレ流さ
 

こころとからだのこと。スポーツ選手のメンタリティーからの、あるいは思想家としての落合博満からの影響。

こころのことをかんがえるうえで、スポーツ選手の意識のありかたは、参考になる。メンタルトレーニングみたいなものも、ずいぶんと浸透しているので、あたりまえの話とはおもうが、実際に経験した感触として、そうおもうのである。


ぼくが、からだをうごかすことに、こりはじめたのは、自分のこころのこととむきあう過程で、河合隼雄の本によって、竹内敏晴という人間にであったからである。竹内の思想を説明するには、ぼくはちからが不足しているが、ひとことでいってみると、それはつまり、「こころとからだは、二にして一である」というアプローチである。こころをいやしていくには、からだとのかかわりに着目する必要があるのである。


竹内敏晴の思想を実践するようになったのは、2年前のちょうどいまごろである。はじめは、からだとのかかわりをふかめていくといっても、はしることだけしか、していなかった。1年ほどたって、10kmもはしれるようになり、多少あきてきたところもあったので、バットをふることをとりいれはじめた。


なぜバットをふりはじめたのかという理由はわかる。野球がすきなのと、手もとにバットがあって、すぐにはじめることができたからだ。そして、こうやって、あらためて整理しようとすると、竹内敏晴の思想を実践している道中なのだということもわかる。


しかし、なぜ落合博満なのだろうか、ということは、いまいちわからない。世代的にいえば、イチロー松井秀喜であってもいいはずである。


ぼくは、おそらく、思想家「落合博満」に、ひかれているのである。記憶をたどれば、2003年秋の中日ドラゴンズ監督就任会見で、はじめて落合博満という人間をしったのであるが、そのときから、かれが野球人として何者であるかもわからずに、なんとなくすきだった。阪神タイガースファンなので、積極的には応援できなかったが、ずっとなにかを感じとっていた。


このようにかんがえると、はじめにかいた、「こころのことをかんがえるうえで、スポーツ選手の意識のありかたは、参考になる。」ということは、すこしいいかたをかえなければならないかもしれない。単に、ぼくが、思想家としての落合博満から、影響をうけているだけなのかもしれない。


最近になって、ぼくはつぎのような意識をもつことができるようになったのであるが、それがまさに、落合博満的なものなのである。


「2022年に、プロ野球選手になることをめざしている。

今年から、はじめたことなので、まず3年をひとつのくぎりとする。ふつうの野球選手たちであれば、高校3年間をへて、プロ野球のドラフトにかかるか、大学野球、社会人野球にすすむかという時間軸があるので、それを目安にしている。

プロ野球選手になろうが、なるまいが、ここでつみかさねたことは、絶対に自分を裏ぎることはないと確信している。まだ半年とすこししか、やっていないが、自分の人生にとって、かならず重要な経験になると、すでに手ごたえをつかみつつある。」


この話には、オチはないが、ひとつだけ感想をいっておきたい。


ぼくの精神はいま、非常に健康的になりつつあると実感している。これは、河合隼雄、竹内敏晴、落合博満のながれで、かれらの思想にふれて、それを実践していることの結果なのである。


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