ウソと信用について~政治家の街頭演説と居酒屋とかの客引きとの異同から、かんがえてみる~

ぼくは、政治家の街頭演説がきらいだ。

きらいなので、極力、目をあわさないようにして、つとめて無視をしている。

一応、これがぼくの政治的姿勢のあらわれだと、とらえてもらっていい。

一方、居酒屋とかの客引きだが、政治家とにたような感じで街をあるいていて、でくわす。

なぜかしらんが、これには、返事をしてしまう。
生返事をかえしてしまうので、よくめんどくさいやりとりをやるはめになってしまう。「つぎあるんで、ごめんなさい」とことわっても、「どこですか?うち、もっといいとこしってますよ。」とか。いまから女性が接客してくれる店にいくかのように、うけとられて、閉口することもある。もちろん夜のお店にいくこともあるが、いくときと、いかないときくらい、察してほしい。

とまあ、余談がすぎたが、ようは、ぼくの対応は、政治家と客引きとのあいだで、これくらいの差があるのだ。

これについて、いままで、なんの疑問もなく、すごしていたが、ふと気になった。

なんで、ぼくは政治家だけ、距離をとっているんだ?

理由のひとつは、政治家への不信感がある。
政治家とは、ことばと口を生業にする弁舌家ともいいかえられるが、弁舌家の本質には、ひとつ「ウソつき」がある。

ことばや口をたくみにあやつる人間には、どうしてもウソがつきまとうのだ。

たとえば、ひとは、なんの気なしに「話を盛る」でしょう。

対して、客引きには、いままでは、お金を介するので、そこにはひとつの信用があると、おもっていた。お金が信用の尺度になるというのは、資本主義の原則だ。

しかし、どうやら、客引きも信用ならないということに、おもいいたった。

客引きに、ホイホイとついていって、ババをひいたことは、何度もある。

だいたい、客引きとはことなるが、バイトテロというのも、もはや資本主義の原則から、かけはなれているし。

世のなかを信用するための尺度、ものさしを、あらためて、かんがえなおそうとおもう。