マッサージは病んだ心身を治癒するきっかけをあたえてくれる

マッサージというセラピーをうけた経験から、かんがえること。
ジェンダー論にも、かかわってくるかもしれません。
マッサージは奥がふかいです。

  目次

マッサージとは。

マッサージがすきなので、たまにいきます。単純に、からだという機能のコリをほぐしてもらうのも気もちよくてすきですが、それ以上に、「マッサージはコミュニケーションである」ということや、もっというと、「マッサージは身体的な言語である」というところに、たのしさがあります。

そして、なにより、マッサージをうけることで、病んだ心身が治癒していくことを感じます。

マッサージという体験(2018年11月11日の日記から)


竹内敏晴の「からだ、こころ、ことば」論を咀嚼しながら、からだがひらかれてきたことを感じはじめてから、はじめて、ひさしぶりにマッサージをうけにいった。マッサージをうけていて、「からだが、かたりかけてくる」という感じがあった。

これまでは、「思考があって、こころがうごき、からだに変化がおこる。」であったり、「こころがうごき、思考がおこり、からだが変化する。」というながれしかなかった。しかし、今回、「からだがかたりはじめ、こころがうごき、思考する。」だったり、「からだがかたりはじめ、思考をめぐらし、こころがうごく。」というような、「からだからはじまる」ながれが、自分におきていることに気づいた。

こんなふうに、マッサージをうけていて、いろいろ感じることがあります。それをキャッチするのがおもしろくて、すきです。

マッサージの施術者はセラピスト

心身をいやすプロです。

ぼくは整体から、メンズエステまで、いろいろマッサージをうけにいきましたが、いつもそのようにおもいます。かれらから、心身のいやしについて、まなぶことがとてもおおくあります。

マッサージのセラピストにつたえたいこと

まじめに、マッサージセラピストとして、仕事をされているかたには、いやされるものとして、ひとつだけ、つたえたいことがあります。

「いやし」という行為には、それをうけた人間には当然、「いやされる」という反作用があります。つまり、「いやされた」お客さんは、そのうち卒業してしまうかもしれないんです。

足がとおのいてきた、常連のお客さんが、あなたにもいるようにおもいます。

そのかたがたは、もし、「まじめに、いやされにきている」ような、よいお客さんなのだとしたら、あきてしまったわけではなく、「いやされて、心身の平衡をとりもどし、マッサージというセラピーが必要なくなってきた」というわけなのです。

このあたりを、かんがえながら、施術をこころがけていただけたら、よいセラピストになられるとおもいます。

お客さんの定着化とか、回転とか、ご参考になればうれしいです。

メンズエステなど、男性へ施術する女性セラピストの地位向上をねがって

先日、新井浩文氏の事件で、マッサージ業界に、すごくマイナスなイメージがついたような気がします。

一部では、あたかも性的な行為が常時おきているように印象づけるテレビのコメンテーターもいました。

とても残念です。

ぼくは、卑賤な職業だというイメージが比較的あるようにおもえる、メンズエステをはじめ、男性へ施術する女性セラピストが、真剣にいやしを提供しているという事実をないがしろにして、「性産業の一種」として、理解されていることに、多少いきどおっています。

性産業を否定するわけではありません。性産業は、本当に奥がふかいですし、社会的にオープンに議論すべき問題でもあります。しかし、性風俗などと、メンズエステをふくむマッサージ産業は、まったく別の種類として分類されるものだから、事実として、指摘したいのです。

「それじゃあ、性感マッサージは?」といわれそうですが、どちらの産業も身体的接触をともなう点で、近接しているサービスなので、そういう亜種は存在します。あたりまえです。

すこしでも、質のたかいセラピストとお客さんがふえることをねがっています。