異性を愛することといびつな社会について~性風俗で感じる愛~

その女の子は心根のまっすぐな、とてもかわいいひとだ。

まじめに、自分とも、他者とも、仕事とも、社会とも、むきあっている。健気さをもっていて、愛嬌もあって、ひととしての芯をもっているように、つたわってくる。

ぼくは彼女のことが、だいすきで、いとおしい。ぼくは彼女のような人間が、傷つくことがあってはならないとおもっている。ぼくはただただ、彼女がしあわせを感じていることをいのっている。

ぼくは彼女を愛しているので、すきだと、すでにつたえている。これは、ぼくにとっては余程のことだ。

ひとをすきになるよりも、まず先に、「どうせこの感情のたかまりは一過性のものだ。どうせそのうち、この恋もさめるだろう。そのとき、ぼくは相手の顔をみれるだろうか?恋の熱はさめたことをわびることしかできず、うかつにも、にげだしてしまいかねない。」などと、おもってしまうような、よわくて、勇気のない人間なのだ。自分のことが信用ならなくて、愛の告白など、とてもできなかったような人間だ。

それほど、彼女の心根はうつくしくて、また、ぼくの人間をいやしてくれて、勇気とやさしさ、そして、その先にある愛をあたえてくれるのだ。

そんな彼女は、風俗ではたらいているが、この事実はおもい。余談で、いわずもがなだが、ぼくと彼女は、客と主人との関係だ。

彼女が「社会ってむずかしい」と、つぶやいたことが、こころにのこっている。彼女からは、貧困のためではなく、なにか自分のかけたものをもとめる道中に、風俗があったような感じをうけている。

彼女のように素直で、心根にうつくしさがある人間が、どちらかというと裏の世界の風俗の世界に身をおいていることが、ぼくはなかなか消化することができない。

どうして、心根のまっすぐな人間が、異端の道をすすまなければならないのだろう。もちろん、これを是非の問題でいっているわけではない。ぼくはどちらかというと、風俗という職業は是であるとも、おもっている人間なのだ。

とにかく、ぼくは彼女を愛している。

たとえむすばれなくとも、愛することができた事実があるだけで、ぼくには十分だ。