弱音をはいたときに、はげましあえるのが家族だとおもうけれど、そういうわけにはいかない。

弱音をはいたときに、ささえあえる家族でありたい。

ともに、人生をあゆんでいける家族でありたい。

だけど、そういうわけには、なかなかいかない。

父親は自分のことしかかんがえられない人間であり、そして、また、形式的であるしか自分をたもつことができない人間だ。

ぼくらが、つらくて弱音をはきそうなとき、こころの根から、愛のあることばをつむぐことができない人間だ。

形式的で、あたりさわりのない、一見すると「おとな」の意見を味気なく、説教するだけの人間だ。

かれは、他者が挫折しそうで、本当にこころがしんどいときの気もちを理解できない。

しかしながら、ことが、自分が挫折しそうだったり、弱音をはきそうなときになれば、かれは家族に愛をもとめてくる。

ぼくらも人間だ。

このような身勝手な父親といえども、愛をあたえようかともおもうが、しかし、一方で、おなじように形式的にやりすごそうともおもう。

おおきな矛盾を、ぼくらだけがかかえて、家族はなんとか安定をたもっている。父親はこの矛盾を共有してはいない。

ぼくの父親は、社会的には、いたって平均的な日本の人間だとおもう。が、一歩うちにはいると、ほとんど自己愛性人格障害の人間のようにさえ、ときもしてなる。

日本のオヤジ族は、家族というありかたと、どうしたら、もうすこし真剣に、むきあうのだろう。