続・私の教育観~自分の成長は、偶然に、そして、自然におきる。教育の真の価値は目的論ではえられない。~

社会復帰、というより、それよりもっと以前の社会参加のためか。

「このまま"一度も、主観的には、社会参加できていない"とおもったり、かんがえたりしているようでは、本当に社会から、はずれてしまいかねない」というあせりがあって、なんとか、いまの職場で就労し、社会参加の糸口をみつけるために、しがみついた。

そのとき、「社会参加できるようになるために、3年は、いまの職場にしがみついて、就労経験をつむ」というような目的設定をしていた。

これはよい。

そして、いま、3年まえよりも、主観的に社会参加できていると納得できるところが、多少ある。

これは目的的にやって、えられた結果だとおもう。成果とか、報酬とかといいかえてもいいかもしれない。

しかし、えられたものは、ほかにもある。そして、それは目的設定していなかった想定外のことだ。

ぼくはこの、3年間の行為をとおして、心身が変化した。

○おもいもよらぬ出会いがあって、しらぬうちに、友だちとおもえるひとがふえていた。気がつくと、自分の意志で、そういう出会いをひきよせようと、積極的な努力もするようになっていた。「ひとの世は、しょせん運命さ」とおもいこんでいるような人間が、それでも、社会的な努力をするようになっていた。

○人間を愛せそうな気もするようになっていた。「人間の愛なんて、どうせウソだ」と、子どもっぽくおもっていたが、「ぼくにも愛はある」ということを、ときどき感じることができるようになっていた。

ほかにも変化はあるがおもいつかなくなったのと、話がそれていくので、これできる。

うえにかいた、ふたつの○(まる)のようなことが、教育的価値なのだと、ぼくはかんがえている。

これらのことは、目的的に、なにかにとりくんで、はたして、えられる変化なのだろうか。ぼくは、そのようには、あまりかんがえられない。

目的的にやって、うまくいくのなら、ぼくは老子荘子のような人間になりたい。あんなふうに、たくましく、気楽にいきていたい。

☆参考書籍☆

生物の世界 (講談社文庫)

生物の世界 (講談社文庫)