ぼくは偏差値教育には批判的だ。
東大や京大が、「めざすべき」対象としてのピラミッドの頂点にたっているのが、うっとうしい。
そこにいきたいひとが、努力して、到達することには、なんの批判もない。
批判の対象は、そういうヒエラルキーだったり、固定化した価値観をもって、教育をしている学校、教師、予備校、メディア、親たちだ。
偏差値教育のはてに、なにがまっているのかというと、脱落者たちの敗北感と勝利者たちの優越感だけだろう。
勝利者のみが価値ある人間であり、敗北者たちは身につけた知識や努力を否定されるのだ。
ぼくは進学校にいっていたので、そのイビツさを肌でよくしっている。高校進学の時点では、偏差値が70はあったので、なかなかのものだろう。
高校の入学式に、「きみたちの大学受験競争は、すでにはじまっている」と、滝廉太郎みたいな数学教師がいいはなったことばが、わすれられない。
高校受験の勉強をやっとおえ、「自由に本をよんだり、勉強したりできるぞ」と、期待していたが、いきなりうちくだかれた。
入学早々に、三者面談があったが、そのときは担任の生物教師が「きみは、我が校に、どういう夢と希望をいだいて、つまり、どの大学をめざすために、入学してきましたか?」と質問された。この教師は、異常な経歴のもちぬしで、この高校を卒業し、京大にすすみ、その後高校教師になり、以降30年以上、自分の母校につとめているような人間なのだ。母校への盲目的愛情と教条的情熱につらぬかれている人間なのだ。
うんざりしたので、「家から一番ちかくて、自分の学力にみあった学校が、ここだけだったからです。」と返答した。
担任はかえすことばがなかったみたいだ。
以降、高校での勉強は不愉快きわまりなかったので、半年ほど、まったく勉強せずに、毎日司馬遼太郎ばかり、よんでいた。
はじめの期末テストがおわったとき、結果は、学年約320人中315番目くらいの点数だった。
学校や教師は、受験競争思想によって、ひとりの少年の学業への情熱をうばったのだ。