日曜日夜と月曜日朝のはざまのきりかえが、今回はうまくいった。
孤独がおしよせてきたころあいに、自己という球体をイメージして、そして、その球体はつねに回転しているということもあわせてイメージした。
そうすると、その孤独は、自分のひとつの側面でしかなくなり、というより、自己のなかのひとつのキャラクターなのだという納得と安心があった。
やがて孤独が中心から、はなれていった。そして、こころは、おおきくゆれずに、ふたたびおちついた。
どうも、こころ、あるいは自己というものか、それのかたちは、球体である。そして、その球体は、いく層にもなっている。その層とは、べつにかたい殻みたいなものではない。オゾン層とか、空気の層みたいなものだろうか。
そのいく層にもわかれた球体のふちを自己の部分(ぼくのみつけた自己の部分は、夢、孤独、わたしor自我、自由)はまわっている。
自己の部分が、いく層もの球体のふちをまわっていて、あるきっかけによって、ひとつ層をこえ、またひとつ層をこえ、中心にむかってきたとき、自己の部分が自分という存在を支配的になる。
このとき、たとえば、孤独が中心にちかづきすぎると、「わたし(自我)」は孤独感をつよく感じるのではないか。