ホリエモンチャンネルの「まわりがもとめるキャラクターと自分のイメージとのギャップ」の話から、おもいこみをうちくだくことについてかんがえる

「みんながもとめているホリエモンというキャラクターと堀江貴文という人間の、一致しているところと不一致なところ」について、はなしている。


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『多動力』とか、『ゼロ』についても、「かきたい!」っていうほどのものではないらしい。

だけど、「かきたくない」ものであっても、「まわりがもとめるホリエモン」と堀江貴文が、まったく不一致なわけでもないので、「ホリエモンというペルソナ」を抽出したものをことばとして、まとめて出版している。ざっくりと、ひとつのテーマをまとめるとこんなことをはなしている。

ここがすごく興味ぶかい。

ふつう、自分の「したくない」というのには、けっこう、とらわれるとおもう。

自分の理想のイメージは、そんなのじゃない!とか、おもいがちだとおもう。

それこそ『ゼロ』でかかれていたように、0に1をたすということが、なんで、簡単にはできないのだろう。

なんで、「自分はこんなんじゃない」という感じで、「自分は10もっている」というおもいこみをしてしまうんだろう。

このおもいこみをうちくだくのは、なかなかむずかしい。林竹二と竹内敏晴は、このおもいこみをうちくだくことを「ドクサの吟味」といったりしている。ようは、おもいこみをうちくだくのは、哲学的なことなのだ。

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あたまでは「自分は0だ」とかんがえられても、こころやからだ全体で、「自分は0だ」とは、なかなかわかることができない。

ぼくはこれは、「納得できるか」がカギをにぎっているとおもう。

「ああ、やっぱりぼくは0だ。はじることはない。1をひとつずつ、たしていこう。」と、あたま、こころ、からだでわかるという納得が必要なのだ。

ホリエモン車輪の再発明は無駄だというけれど、「納得できるか」についてかんがえると、ぼくは必要なのだとおもう。

なにかを発明したときの納得感って、とてもたいせつだ。それがたとえ再発明だったとしても。

そもそも禅のさとりなどについても、絶対的な発明というのはなくて、それぞれの内的なところでの発明があるだけなのだから。