卒業というのが、あまりすきじゃない。
「くぎり」をつけることはよいのだけど、卒業ということばには、「くぎり」以上に、「終止符をうつ」くらいの先鋭な感じがあるから、すきじゃない。
なぜおわる必要があるのだろうか。
ぼくはここには、戦後からつづく、イヤーな感じの思想が底流にあるような気がしている。
いろいろ分別くさく、議論したい気もあるけれど、文章力がないので、やめた。
感じだけ、いつものようにかこう。
ひとつのことをつきつめることの賛美のさきに、卒業があるような気がする。ちょっとちがうか?
いや、なにかをおさめたから、卒業があるのだろう。
この感じが、すごくいやだ。
なんで無理やり、「なにかをおさめた」気にさせられて、卒業させられなければいけないのだ。
このことについて、『梅棹忠夫語る』p119から、梅棹忠夫のことばをかりて、勝手に、反卒業のたすけにしてみる。
「自分には首尾一貫してものを言おうとする美学はない。むしろ多様性の美学だ。」
「戦闘技術を極めて、あれで人生、おもしろかったんかなあ。宮本武蔵はつまらん人生やと思う。多様性の美学がない」
ぼくはこの感じがすごくすきだ。
また梅棹忠夫は、べつの本で「すべては、うちかけの碁だ」とも、たしかいっている。どの本だったか、さがすのは骨がおれるので、やめた。
うちかけとは、対局を一時中断することをいう。囲碁はタイトル戦などでは、2日間をかけて、あらそったりするので、うちかけとなる。このとき、公平性をたもつために、手番はつぎの一手を、うちかけまえにきめ、紙などに記録して、封をして、ようやくうちかけとなる。
このまま翌日になっても、開封せず、10年くらい、中断していてもよいではないか。
半端者というと、ゴロツキとか、そういうイメージがあるけれど、半端者のたのしみもあるはずだ。
なんでもかでも「中途半端」だとおもわされる、その単層的な価値観がうっとうしい。
地層とは重層だ。人間の自己も重層だ。
つまり、あなたがたこそ、半端者かもしれないのだ。あなたがたが、卒業だとおもいこんでいる「層」は、それはただ単に表層を掘削したにすぎないのではないか。
このことに対して、イチローの近年の姿勢と先日の引退の決断と会見は、なにかしらの問題提議のように、ぼくには感じられた。
イチローの引退会見を文字でよんだが、全然「引退」が感じられないものだった。
イチローはなにからも卒業せず、なにからも引退しおらず、ただ変化だけはあった。野球との距離感が変化しているのだ。
イチローは、草野球の話をしていたけれど、そのあたりからも、なんにも卒業していない感じがする。
ここで突然、氷室京介がでてくるけれど、2014年に、氷室京介は唐突に「氷室京介を卒業する」とライブのMCで酸欠になりながら、発言した。
ライブ後、事務所などにさとされたのか、あわてて、「ライブ活動無期限休止」と訂正した。その後、ファンクラブでは「氷室京介を卒業できない」と銘うった企画がはじまった。
「うちかけの碁」は、たぶん孤独なのかもしれない。「もう一度やることがあるかもしれない」という夢や希望をのこしながら、同時に、「自分にはもう、それはできない」という現実をも、うけいれなければならない。
ひるがえって、卒業とは、どうにも逃避的だと感じる。卒業には、泥くさくしがみつくという人間くささがなく、人間が容易にできるわけのない「きれいさっぱり納得する」ということを、無理やりおこなっているウソくささが感じられる。