卒業ぎらい。卒業しないといういきかた。

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終止符をうたず、夢や希望をのこす「くぎり」

なんなのですか。

やはり3月は、わかれの季節ですか。

どこまでも、人間はことばや、イメージに、意識が左右されるなあ。

だいたい、みんな3月になると、なにかしらの決断をする。決断それ自体はよい。

やっぱり、卒業、引退、それにともなう、データの消去は、ぼくはいやだ。

そこは、hideと感覚を共有している。

X JAPANが解散したとき、hideは解散、つまりデータの消去だとは、ひとりとらえていなかった。

解散がどうあれ、ほとぼりがさめたころ、Xの5人がまた集まれば、それでまたやればいいじゃん。Xの5人がまたそろって、音だせば、それは復活じゃない?

そんなことをhideはいった。

人と人とが、ふたたび顔をあわせれば、物語もふたたび、再開されるのだ。

よみかけの、ふるい小説と、人生はなんらかわりがないのだ。

50年後、時はふたたび、うごきだす。そんなことが、あってもいいだろう。

終止符をうたず、泥くさく、しがみつづけるという思想が、この社会に、すこしは根づけばいいとおもうが!

市場での人間関係~関係を継続するむずかしさ~

市場のなかで、構築された人間の関係のむずかしさって、あるとおもう。

人間関係って、もっと多層なものだとおもうけれど、市場のなかでのそれは、なんというか、ビジネスライクの一点張り。
どれだけ意気投合しても、主人とお客さんという立場をこえることはむずかしい。

なんて貧相なのだろう。

それに固着している意識の不器用さ。

なんという不自由さ!

ゆるくつながりをもちつづけるという意識のもちかた

ぼくはペルソナって、すごく、ゆるいものだとおもっている。

みんな複数枚もっていて、あたりまえやし、それを都合よくつかいわけることも、あたりまえだ。

そこは、したたかでよい。

ぼくが戸籍名で日常すごしていることも、インターネットのハンドルネームであることも、全部それは統合されつつも、べつの顔であって、それはそれでよいのだ。
つかいわければ、よいのだ。

名については、人間の歴史をひもとくと、源氏名というものがある。

源氏名はペルソナであるか?
どうもちがう。
源氏名は夢のみで通じる名である。

夢と現実をいったり、きたりできる、したたかさ。
それと、むすびつくものが、ペルソナのありようのようにおもえる。

ペルソナを獲得するには、個としてのつよさ、つまり、孤独にたえうる精神が必要なのかもしれない。

孤独とは、自分との対話だと、ある人物は、ぼくになげかけた。

梅棹忠夫は、「多様性の美学」をといた。

はじまりがあって、おわりがあるという一本道ではなく、一貫性のないところにある、なにごとかをつかみたい。