哲学者との食事~身ぢかに哲学のあることのよさ~

職場の、ほとんど唯一といってよいほどの利益は、研究者と会話をすることができることだ。

最近は、ある哲学者と昼食をいっしょにとることがおおい。

その哲学者は、ことばえらびのたくみさだけでなく、対面する他者との距離感をはかりながら、コミュニケーションをとっているように、ぼくは感じている。

なにげない会話のなかから、ぼくの言語化できない内面のうずきをすくいあげてくれる気がしている。

食事をおえたあとの爽快感が、それがたしかであることの裏づけといえるだろうか。

フランスでは、むかしから、哲学カフェが、さかんであるという。日本でも、一時期はやりをみせた。

いまはどうなのだろう。

なににせよ、哲学の重要さをとても感じている。

またフランスの話になるが、先日の朝日新聞の折々のことば(哲学者鷲田清一のコラム)が興味ぶかかった。
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フランスでは、哲学が身ぢかなのだ。

難解な哲学書は、ぼくにはとてもよめない。
しかし、哲学者といっしょに昼食をとれるような、そういう身ぢかなところで、哲学を感じることができるのは、意識の明晰さのために、とてもたいせつなのだと実感している。