退学する勇気をもて。学校やほとんどの教師は、きみのこころの声をくみとってはくれない。

アメトーークは、比較的すきなテレビ番組なので、毎回録画予約して、休日になると、みています。

ちょっとまえの回に、「高校中退芸人」というテーマがありました。

こういってはなんですが、「高校を中退したこと」について、あかるくはなす芸人さんには、あこがれます。

あのとき、ぼくも高校を中退していれば、よかったなあと、わらいながらテレビをみていて、おもっています。当然、中退していたら、いまはないわけで、まあ、がんばって、高校にかよってよかったとは、おもっていますが。

宮下草薙というコンビの草薙さんは、高校に入学して2日で、やめる決断をしたらしいですが、その決断のいさぎよさがかっこいいです。

その決断はなかなかできません。日本社会では、15歳で、裸一貫になってしまっては、もうあとがないですから。場合によっちゃ、ボチボチ投了せんなあきません。

ぼくは、高校に入学して、1ヶ月たたないうちに、「ああ、もう高校はダメだ」とおもいましたが、やっぱりやめることができませんでした。高校をやめて、退路をたつようなことは、恐怖で、できません。所属したくなくてしかたがありませんでしたが、はじめからやめるという選択肢もありませんでしたし、想像すらできませんでした。

まさに、すすむも地獄、しりぞくも地獄です。

それからは、なんとか高校にとけこんで生存していくために、いかにして自分の感情を封印するか、いかにして仮面をつけたよそいきの自分を構築するか、だけをかんがえていました。

数ヶ月すぎたころには、高校で生存していくことは、どうにかできそうにはなりました。

しかし、すこしずつですが、確実に、表の顔(高校で生活している自分)と裏の顔(封印した感情)との接地面がちいさくなっていきました。

生存のために理性でつくりあげた表の顔は、つくりわらいが容易にできるくらいにまで、たくましくなり、一方で、封印しつづけた感情は、自分では自由にあつかうことが困難になるほど、しだいに正体不明のものになっていきました。

ふつう、人間は15~18歳にかけて、おとなにむかって成長していくなかで、いろいろなことが統合されていくのだろうとおもいますが、ぼくの場合はまったく逆で、自己を分離、分解していく3年間でした。

たぶん、いまから解釈すると、こういう感じだったのだろうとおもいます。

学年が1年、2年、3年とあがるにつれ、自分をふくむ人間とのつきあいかたが、坂をころげおちるように、わからなくなっていったのは、こういうことのためだったのかもしれません。

もっとも多感な時期に、バカげたことに注力していたものだから、その癖づいたものを心身からときほぐしていき、治癒していくには、えらく時間がかかるなあというのが、いまの率直な感想です。

こういうことがあることを、学校に属する人間は、ほとんどしっていないか、あるいは、みてみぬふりをしているので、ぼくは学校が、だいっきらいなのです。

ぼくがかよっていた高校は、伝統と優秀さにおいて、ほまれたかい進学校でしたが、その高校の教員たちは、だれひとりとして、ぼくのつくりわらいの裏に、抑圧された感情の悲痛なさけび声があることを看破することはできませんでした。

いったいかれらは、なんのために、教師をしているのでしょうか。かれらの教育とは、つまり、「ひとりの人間の"いきにくさ"をはぐくむこと」なのでしょうか。