相手に自信をあたえる期待と相手の主体性をうばう期待

自分に対して、期待をよせてくれるひとがいたとき、それは、すごく自信につながるということがわかった。

「そのひとは、ぼくのことをみとめてくれていて、期待をよせてくれている。」

その事実が、ぼくが、自分を信じることを可能にした。

これが自信であるのかと、なかなかおどろいている。

上司に理不尽にどやされても、身じろぎも、こころのゆれも、おきなくなった。冷静に、またいつものことだ、と処理できるようになった。

ぼくは上司の理屈のなかで、信用され、信頼されるという期待に反応しなくなった。この人間に、信用されようが、されまいが、もはやぼくには、どうってことがない。

この上司の理屈のなかにある、ぼくへの期待には、ぼくはこたえない。

ぼくのあるがままの姿を理解してくれているひとが、ぼくにはいるのだ。

上司の恣意的な期待にそむいたって、精神的には、まったく大丈夫だ。

ところで、「期待」ということばが、二度、三度でてきた。この「期待」のもつ意味は、それぞれことなっているとおもう。

ぼくの自信につながった期待は、いうまでもなく、期待というものが、本来、こうあるべきものだということをしめしている。

「わたしのあるがままの姿を、あなたのあるがままの心根から期待する」

こうあれば、期待に対して、双方なんのしんどさもない。これを可能にするには、双方、精神的な成熟が必要で、個人として、たがいにみとめあっていなければならない。

ダメな期待とは、これまでのぼくと上司とのあいだにあった期待だ。

「自分の思惑という枠のなかから、相手に期待する」というのは、まったくダメなやりかただ。これこそが、相手の主体性を破壊していく主要な原因だ。

これはやはり、期待をかける側の精神的未熟さに、おおきな問題があるだろう。