卒業ということばがもつ、逃避的な感じはなんだろう。
過去からのつながりを維持することができないよわさを、ぼくは卒業ということばから感じる。
卒業には、過去をたつというニュアンスがないだろうか。
卒業にかぎらず、人間の意識は、ことばや概念、制度などから、自由になれないのだろうか。
たとえば、バーやクラブのママなど、店主と意気投合し、共感していたとしても、その客と主人という関係性からは、簡単には自由になることはできない。
仲よしになっていて、たがいの身のうえ話をどれだけしていても、店を廃業するとなったとき、はたして、友だちとして、ふたりは成立するだろうか。
ほかに例をだすと、学校では仲よしで、たくさん会話をする関係のひとがいても、放課後には一切あそばないということ(それをほんとに友だちとよべるのかはべつとして)が、なかっただろうか。
ぼくは、そこから、自己のよわさというか、自己を確立できていない感じをうける。
ぼくのことをいう。
ぼくは、こういうある枠組みのなかでのみ成立する関係性がすきじゃない。
なぜ枠組みがかわると、仲よしだったものが、仲よしではなくなるのだろう。ギクシャクしたり、変な距離感がうまれたりするのが、めっちゃいやだ。
だから、ぼくは極力、一対一の関係性をきずく努力をしてきた。一対一なら、どんな枠組みのなかでも、ふたりっきりなので、ゆるがない。
だけど、これにも欠点があった。ひとりふえて、3人になったとき、一気に、そのひととの関係性がくずれるのだ。これはぼくの未熟さゆえだ。
複数人の人間関係をきずく技術も精神も未熟だったのだ。
また、ぼくが枠組みをこえることができても、相手がそれをこえることができないのも課題としてある。
話がまとまらない。
とにかく、ぼくはみんな、もっと人間関係にしたたかになればよいとおもうのだ。
ちょっとでも共感できたり、枠組みがおなじだとおもえるひとがいたら、積極的に、ゆるくつながることができたらよいのに。
たぶん、それができないのは、枠組みの変化によって、信用していた相手の像が変化し、信じていた相手の像が、虚像だったと気づくことで、こころが傷つくのをおそれているからなのだとおもう。