この表題の真意については、ブログをかきはじめて、おもったわけではない。
ただ、ブログをかいてみて、これは容易には、やめることはできないものだとおもった。
ブログをかくことで、たったひとりでもファンができるはずだ。もしかすると、ぼくのブログにも、すでにそういうひとが、いるかもしれない。毎日アクセスしてくれているひとが、なかにはいるかもしれない。
そのファンは、もしかすると、このブログが、いきるささえになっているかもしれない。
そうだとすると、ぼくが安易にはじめたこのブログは、すでに社会的意義を背おっていることになる。
突然、このブログを更新することがなくなったとき、そのファンにとっては、目のまえの一筋の希望がきえてしまうことになるではないか。
そんなかたちで、傷をつけることをしてはいけないだろう。
たいそうなことをいっているようだけど、そうじゃない。
目のまえにいる人間が、あるいは、日常にとけこんでいる関係性が、突如として、きえてしまうのは、ある種のひとにとっては、ほんとうに、たえられないくらい、さびしいことなのだ。
そのさびしさは、精神の未熟さゆえのこともすこしはあるだろうが、単純にそうともいえない。
ひとに対するやさしさがおおきすぎて、コントロールできていないだけでもあるだろう。そんなひとのささえになっていたとしたら、そんなに簡単に、ブログをやめるわけにはいかない。
ひとは、ひととの関係のなかで傷つくことが必要だ。しかし、それは、自らの意志で傷つくことでこそ、意味をもつのだ。
目のまえにいたひとが、突然いなくなってしまって、自分の意志とは無関係におった傷は、なかなかいえることのない、おもい傷になるだろうとおもう。