「自分は自分だ」という自信をもつには~夢が挫折したさき、さらに夢みる決意がひとをつよくする~

目次

手にいれた「ゆるがないこころ」

相手に、なにをいわれても、動じなくなってきた。

これまでだったら、相手が怒声を発したり、すごんできたりしたら、ドキドキしていたのに。

不思議なくらい、こころがなみうたない。いったいどうしたのだろう。

 

自信が「ゆるがないこころ」をつくる

かんがえられるのは、自信をもつことができてきたからだとおもう。自信ってなんだ?といわれると、なかなかうまくこたえられないけれど、つぎのようにこたえてみる。

これまでだったら、相手から、ようはNO(ノー)をつきつけられたら、なんでかしらんが、どうにもこうにも、弁解、弁明したくなっていた。

「まちがってつたわっている!そういう意味じゃない。」みたいな感じの気もちになって、釈然としないまま、あとから、「あのとき、そういうつもりでいっていない。自分には、こういう理由があって、こういう理屈で、あのようにやったんだ。まちがっていない。相手に、まちがってつたわっていたとすると、こまるなあ。けれど、正当な理由がこちらにはあるのだから、まちがったことはやっていない。」みたいに、わけのわからない、気もちの整理をやっていた。

最近は、そういう思考を全然しなくなった。

相手がNOといってきたら、「そうですか。ぼくはこうできるとかんがえて、いっていることなのですが、やり方がよくないのであれば、べつの方法をかんがえます。どういった点で、よくないのでしょうか?」と、はっきりと、堂々と、そして、こころがドキドキせずに返答できるようになってきた。

なんだろう。

相手の理不尽というか、不可解さに、腹がたったり、不快になることもなくなってきた。

 

そして、自由

いますごく自由を感じている。

相手がどうであろうと、自分は自分だと、おもえている。

 

理想や夢をえがき、やってみたら挫折し、それでもやっぱり夢を信じる決意が、ひとをつよくする

なぜ、こうなったか、すこし分別くさくいうと、「感じるままに、やりつくしたから」だとおもう。

ぼくの「感じるままに、やりつくす」というのは、「ひととつながっていたい。とにかく、すきだ。ことわられたって、すきなものはすきだ。負担かもしれないけれど、わかれるのはいやなので、連絡先を交換してください。ダメだといわれるのは、わかっているけれど、つたえたいので、つたえます。」と何度か、だれかに対してつたえたことだ。

もちろんストーカーにならないくらいの配慮はしている。いきおいという意味で、うえのようなことをした。

結果的には、連絡先を交換することはできなかったのだけど、その結果をしっかりうけいれたことが、たいせつなことだとおもう。

理想や夢を目一杯表現し、たいあたりした結果が、たとえ、わるいものだったとしても、うけいれることができて、それでもやっぱり、自分はそういう理想や夢を信じて、いきていくんだって、決意できたときに、ひとは自信を手にいれるのだとおもう。