「えらばれたもの」とか、「えらばれなかったもの」とか、「内と外」とか、「本音と建前」とか、そういうのを全部とりのぞきたい。
とりのぞきたいものだから、自分のことをあけすけにいう。
本当は、全部つつみかくさず、いってしまいたい。おおきなことから、ちいさなことまで、すべていってしまいたい。
だけど、いえないときがある。
世のなかにある本音と建前が、実体をつかめないまま、うすぼんやりとしたかたちで、ぼくのあたまのなかをかけめぐる。
そのとき、いいたいことをいおうとしても、「うーーぅ」とうなって、ことばにできないというのがある。これが、すごくいやだ。すごく不自由だ。
しかし、こういう感じでいきるのは、実社会でいきていくうえで、あんまりやらない方がよいみたいだ。
こういう感じであることは、「ふつう」のひとたちにとっては、どうも信用できない人間にうつるみたいだ。
まあ、たしかに、一歩ひいて、自分をながめていると、「社会人」からしたら、あぶなっかしい人間のようにみえる気もする。
給与のこともだし、雇用についても、自分のことに関するかぎり、あけすけに、全部いう人間なので、これは面倒かもしれない。
ただ、「だったら、だまっていてほしいようなやましいことをするな」とおもうので、「社会人」のいい分を理解はできるが、同調することはしない。
ぼくだって、いちおうはかんがえながらやっている。道理のあるところだとかんがえているからこそ、あけすけに、なんでもかでも、いうのだ。
人間には、「ついてよいウソ」と「ついてはいけないウソ」がある。
前者は、夢や希望をうむようなウソや無用な軋轢をうまないウソであり、後者は、大義のない、私利私欲がみえすいたやましいウソだ。
ぼくが、あけすけにいうことは、「ついてはいけないウソ」にかかわることだ。ひとの道にそれるようなウソはついてはいけない。
ここのところで、ぼくは学校や会社組織がきらいなのだ。もっというと、家族(制度)もきらいなのだ。
あれらは、「ついてはいけないウソ」を、法だったり、制度だったり、論理だったりを都合よく利用して正当化して、「ついてよいウソ」にみえるようにかざりたてる。
この「やましいごまかし」こそが、ひとの道にそれることなのだ。下劣なウソなのだ。
ぼくは、この下劣なウソをつくことができない。たぶん「社会的」には、ぼくは子どもっぽくて、このウソをつくことができる方が「おとな」なのだろう。
しかし、もしそれが「社会」がもとめる「おとな」なのだとしたら、ぼくはずっとおとなになんかならなくてよい。
もう一度いうけれど、本当は全部いってしまいたい。