ぼくは「小学校時代、5年4組のM山、Y本、K澤、F井、K本ら」に、数ヶ月ほど、いじめられていた。あいつらは、陰湿にいじめをやっていた。
ぼく以外のひとも、標的にされていた。
下劣なやつらだ。
自分の不安を愉快に変換するために、おもいつきで、つぎつぎと標的をかえて、ひとを傷つけるのだ。
長じてから、数人はみたが、性根はいまもかわっていないことが容易に想像できた。
全部つつみかくさず、いってしまうので、ぼくもいじめに加担したことがあることも、あわててつけくわえなければならない。
いじめられたものの名誉のために、具体的にはかかないが、同時期にそれはあった。
いいわけがましいが、「わるいことをしている」とおもいはしたが、まわりのながれに抵抗するつよさは、ぼくにはなく、間接的にも、直接的にも、いじめに加担していた。
ぼくはこの時期に、集団のこわさをしった。集団のなかでの人間の行為は、まったく不可解で、不条理なのだ。白を黒だと、ほとんど無自覚にいってしまうことさえある。
それからは不条理に自己がおしつぶされないように、集団からはできるかぎり距離をとるようにしている。
そして、個人主義とか、孤独のこととか、いろいろかんがえたが、「ことば」をしっても、どうにもならない問題のようにおもえた。
個人の尺度をもち、なおかつ、社会と調和的に参加するというようなことは、ことばによって、会得できるものなのかは、はなはだ疑問だ。
無鉄砲にも、行為することでしか、わかることができないようにおもう。
しかし、人間は勝手なもので、うえの「5年4組のかれら」のように、「無自覚」に行為するところがあるので、いくらめくらめっぽう行為しても、まったくなにも気づかないこともあるのだ。
というわけで、「人格の完成」など、ありえるわけもなく、人間はただ「人格の完成」という理想をえがきながら、普遍的な規準と個人の尺度とを、つねにみくらべながら、逡巡したり、良心をいためたりするなかで、行為しつづけるしかないのだろうとおもった。
なにごとも自覚することがたいせつな気がするが、これが一番むずかしい気もする。