文章をたくさん書くために必要なことは、なによりもまず「かきたいこと」があるということ。表現技法はそのつぎだ。
自分の志向する文章表現ってなんだろうって、ながくかんがえてきた。
目次
まったく文章がかけなかった過去
もともとぼくは文章がまったくかけなかった。
小学生のころは作文はまったくできなかったし、夏休みの課題の日記も満足にかけたことがなかった。
中学、高校もおなじだ。
それから、大学受験のとき、国立大の二次試験で、国語の論述の回答もまったく歯がたたなかった。
文章をかくのは、ほんとうに不得意なのだ。
ぼくの文章訓練
だけど、ぼくには、むかしから、「自分は文章をかくことができる」という確信めいたものがあった。
いまもこうしてブログをかいているように、高校生のころから、のんびりとだが、文章をかく訓練をしてきた。
この文章訓練は、苦手意識の克服という感じはまったくなく、むしろ、本格的に文章をかくことになる、そのときをみこして、文章をかくことへの自信をたしかなものにするために、おこなってきたとおもう。
やってきたことは、まずは読書だ。そして、読書によって、わきおこってくる想念の言語化だ。具体的には、本にかきこみをすることだ。そのつぎは、日記だ。日記にかいたことは、感情の吐露もだし、やったことの記録、ことばの定義、かんがえたこと、感じたこと、旅行記録など、なんでもかいた。これを高校1年から、7年くらいつづけた。
その後は、だれかにむけて、メールをかいた。日記にかいてきたようなこと、本へのかきこみなど、すべてをつめこむかたちで、だれかへのメールというかたちで、まとめた。
それから、不特定多数へ文章をかくことをFacebookを利用して、1年ほどつづけた。
そして、いまブログで、匿名の人間として、だれかにむけて、文章をかいている。
これだけかいてきて、やっぱりぼくの「文章をかけるという確信」は、ただしかったとおもう。
「かくこと」があるということが、一番たいせつ
ぼくには、「かくこと」がたくさんある。1日で、ブログに6記事もかいているのだ。
こうやって、自由に、たのしく、かけることが、ぼくにはたくさんあるのだ。
学校時代に、文章がまったくできなかったのは、「学校という枠組みのなか」で、「きめられたこと」について、かけることがなかっただけなのだ。
どのような表現で文章をかくかとか、うまくかくにはどうするかというのは、あとからついてくるものだ。なによりも、まずは、「かくことがある」ということがたいせつで、そして、「なにをかくか」ということが、つぎにたいせつなのだ。
ここで、ようやく本題にもどる。
自分の志向する文章表現
ぼくにあった文章表現は、なんなのだろう。
エッセイ
ひとつはエッセイだとおもう。これだけ文章をかいてきて、エッセイが一番自由度がたかいとおもうようになった。論文というか、論じる文章は、論理の制約かおおきい。論理から飛躍することができるエッセイという形式が、やっぱりよい。
小説あるいは物語
だけど、最近、ちょっと欲がでてきたのか、自信がついたのか、わからないけれど、小説的表現もよいかもしれないとおもうようになった。
ぼくがいまわかっていて、かきたいこと、かけることは、「ことばではあらわしにくい」ことだったりする。
言語化しにくいことが、やっぱりあるのだけれど、ぼくには音楽もないし、絵もない。あるのは、ことばだけだ。
それを言語によって、表現するためには、やっぱり小説という技法がよいのではないかとおもうようになった。
それにしても、「ぼくが小説をかくのか?ほんとうに?よくそんなことをいうな。」というのが、ぼくの気もちの半分ほどをしめている。自分が小説をかく、物語をかくなんてことをことばにしていることを自分自身が多少おどろいている。
今後も、とにかくいろいろかいてみる
とにかく、「ことばにしたいことを、ことばにする」ということが、ぼくの欲求だったりするので、いろんな文章表現技法をつかってみて、おくすることなく、「自分のかきたい」という衝動に忠実に、いろいろかいてみようとおもう。