死のこと生のことをだれかと共有できることを、ぼくはもとめている。

これだけ、ああだこうだと、snsとか、ブログにかいているのは、なんというか、だれかにかまってほしいとか、そういう衝動からのことではない気はする。

そういいきってしまうと、ウソにもなるので、多少めんどうだけど。

核にあるのは、死のことについて、だれかと共有したいということなのかもしれない。あるいは、死の裏がえしとしての生のことでもよいとおもう。

なぜ無駄なことばかり、ことばにしつづけているのかとか、なぜむかしからことばにしたいという欲求がつよかったのかとか、そういうことの核には、生死のことをだれかと共有したいということがあるような気がしはじめた。

こういう感じが、自己のひとつの核として、むかしからあった。まちがいなく、この感じは、10歳のころに経験した祖母の死がきっかけになっている。ただ、それ以前から、すでに萌芽はあった気もしている。

死のことをだれかと共有できる生活をおくることができるならば、富も名誉も、なんにもいらないとおもえそうな気もしている。

まあ、おいしいものは、いろいろたべたいので、多少の富は必要だけど。ここは、自分のすごく欲どうしいところだとしっている。

死のことも、生のことも、声にだしてかたったり、文章にかいたりするという行為は、すごくあたりまえのことなのだとおもうけれど、どうもぼくのすごしてきた環境では、はばかられていた気がしてならない。

それは、ぼくがピンクスパイダーだったり、ドン・キホーテだったりするためなのか、それとも、ほかに理由があるのか。

死のこと、生のことをまともにあつかうには、ミュージシャンになるか、小説家になるか、宗教家になるか、学者になるか、くらいしか選択肢がないのが、ちょっとよくわからない。なぜこんなに難易度のたかい職業だけなのだろう。

サラリーマンと化していく選択をする人間は、どうやらこういう話を、あまり、あつかいたがらない。

この世のなかをいきていくには、いまなお、ほとんどの人間がサラリーマンになるしかないという観測をもたざるをえない。そういう背景をうけていきているということに、ぼくは自分をカミュのいう「異邦人」として、むかしから位置づけてきたこたえをみいだした気がややしている。

ふつうにいきていても(サラリーマンとしていきていても)、「今日はなんだか、死にたい気分だ。なにもしたくない。」などと、さらりということができることの重大さ、必要性を、ぼくはつよく感じている。

現代人のほとんどであるサラリーマン人間は、原初の人間がもっていたであろう生死の感覚を、"うしなってしまったという感覚すらなく"、あたりまえのようにもっていない。それが、正直さをうしなった、タブーだらけの現代社会をつくっているのだとおもう。

社会がどうのこうのとか、べき論がでてきそうなので、ここでこの始末がわるい内面の表白をおわる。