無理をしない。
できないことは、できないという。
だれのためにいきているのか。自分のためにいきている。
なによりたいせつなのは、自分の生だ。
ぼくはなにも自己中心であることをいっていない。
「自分の生のなかで、だれかのために、いきていく。」ということをいっている。
これは悪ではない。
今朝おきたら、下痢をしていた。正確には、昨晩から下痢をしていた。
最近は、はたらきすぎていたし、からだはヘトヘトだったので、まちがいなく、からだが「やすめ!」と信号をおくっている。
ぼくはこのように、からだの声をきくことができるようになって、自分はずいぶん成長しているとおもう。
がんばれば、仕事にはいけた。
しかし、やすんだ。朝、就業時刻まえに、上司に連絡をいれて、今日やすむことをつたえた。
連絡するまえ、電話を片手に、「がんばれば、いけるのだから、サボりだな。」とか、「はたらきづかれで、体調不良になり、仕事をやすむのって、上司の心証をわるくするかな?だって、上司はもっとはたらいているし。」とかおもったりして、なやんでしまう、むかしからのクセが、やっぱりすこしでてきたけれど。だけど、べつにサボりじゃないし、仮病ではないしと、ふつうにいられた。ここが成長だ。
上司にいってみれば、なんてことはなく、「今日は気にせず、やすんでください。土曜日だけど、あいている病院にいってきなさい。仕事のつかれだろうって、自分で判断せずに。そのあと、ゆっくり安静にして、2時間くらい、ねたらどうだ。また、週あけ、元気でやろう。」といってくれた。いつもは、口うるさく、癇癪もちのきびしい上司だけど、まあ、こんなものだ。
期待にこたえなければならないという"おもいこみ"が、自分のからだに鞭うち、こころをつぶしていく。
そういう心理的な圧迫から、自分が解放されつつあることをうれしくおもう。
自分のがんばりを他人基準で計測するのではなく、自分基準で計測できるようになること、これが自信なのだとおもう。
そして、この自信こそが、意味もなくがんばりすぎない秘訣なのかもしれない。
ひとは自分のためにいきて、自分のために死んでいくわけで、死生のことをだれかのためにという他人基準でやらざるをえないというのは、けっこうきつい。
現代社会は愛にうえている。
愛にうえた人間は、愛につつまれたいという欲求がつよいために、「だれかの期待にこたえることで、愛にみたされることができる」と"おもいこむ"ことによって、馬車馬のごとく、がんばりつづける。
しかし、それはしょせん"おもいこみ"でしかなく、どれだけがんばっても、みたされることはなく、最後はからだをこわしてしまうのだ。
この負のスパイラルからぬけだすのは、愛ではない。
自信なのだ。しかし、自信は愛のあるところにしか、うまれない。
なんだか、最後はわけがわからなくなってきたので、このあたりで、おわる。