うつくしいものを表現するとき、照れの意識がその表現の邪魔をする。

うつくしいものには、照れの意識がついてくる。

ひとは、うつくしいものを表現するとき、たとえば、多少の中二病がみえかくれするので、てれてしまう。

表現するものは、そこをのりこえなければならない。

ところで、男性の下着姿は日常にありえるが、女性の下着姿は日常では、あまりありえなく、どちらかというと非日常だ。

想像してほしい。

室内で、風呂あがり、家族のまえで、男性のパンツ一丁の姿はありえるが、女性のショーツとブラジャー姿はありえない。ここで、いそいで、ことわるが、よしあしの問題をいっているのではない。

男性のパン一姿がありえて、女性のそれがなかなかありえないのは、ひとつには男性優位な社会構造の問題があるだろう。

しかし、今日はそれを論じたいのではない。
今日、いいたいのは、つぎのことだ。

男性のパン一姿が日常にありえて、女性のそれがありえないのは、冒頭にあげた「うつくしさ」の問題がかかわっているとおもうのだ。

冒頭、「うつくしさには、照れがある」といった。女性の下着は、うつくしさが凝集したようなものだ。



女性の下着は、そのうつくしさゆえに、それを着用する人間に、照れや恥の意識がめばえてしまうので、日常にとけこむことが、なかなかできないのではないだろうか。

女性がお風呂あがりに、下着姿でブラブラするとき、ぼくはそこには、表現者としての気苦労があるとおもうのだ。だから、女性は容易に下着姿になれないのだ。