泥酔すると、感情の制御ができない。がんばって理性をはたらかせるが、なにごとかが納得するまで、その感情の暴走は、とめることができない。
わらいたくもなるし、なきたくもなるし、愛したくもなるし、破壊したくもなる。生理的な欲求に対して、どうしようもなくなる。
そんなとき、柄にもなく、自販機を、けとばしたくなる。いま、破壊したい衝動をおさえながら、ちょうど自販機をよこぎった。
しかし、残念ながら、自販機をけとばすわけにはいかないので、帰宅するまで、衝動をなだめて、自分のビニール傘を地面にたたきつけたり、自転車をけっとばす。
それができなければ、つまり衝動を我慢できなければ、アスファルトをけとばしたり、なぐったりして、足や拳をいためつける。
こんな衝動がおきるのは、泥酔していながらも、まだ、のみたらないときだ。まだまだ、のみたらないけれど、おひらきになったときに、こういう衝動がでてくる。
この衝動は、おそらく、松本秀人がいうところの「地球とたたかった結果、ケガをおう」という感じにちかいだろう。
ぼくが、自分のことを「松本秀人のように、そのうち、死にそうだ」とおもうのは、こういうところだ。
人間のもつ、このあぶなっかしさのことを、あんまりみんなわかっていないとおもうけれど、どうだろう。
しっているかい?
人間は、よっぱらいながら、衝動的に死生の綱をわたるのだよ。
この衝動は、愛だけが慰撫することができると、ぼくはおもうが、その愛の実体をつかむことは、いまだできない。
愛らしきものを代用して、自分にポジティブなウソをつき、一時、なだめることはできても、普遍的な自由(ever free ※hideを参照)にちかづくと、愛らしきもの(ウソ)では、歯がたたない。
自分が自分につく、そのウソへの"いらだち"が、破壊したい欲求を活性化させるのかもしれない。
なんにせよ、こういうときは、たいてい、酒をのんでいる。
酒は、劇薬だ。
酒は人間をいかしもするが、ころしもする。
ところで、自分の意志で、自殺しちゃう人間には、感服する。近代人の限界をこえているのだもの。
「いじめられたから、自殺しました」という形跡をのこすことができる若者は、見事だ。
これが現代人の死生観なのだ。
hideの死とは、意味あいがちがうのは明白だとおもっている。