虚言癖や誇大妄想がおきる構造~意識と無意識のはざまとか~
昨日、ふつうに、電車は終着駅までいっていました。
昨日11時頃に、ぼくが乗車していた電車は、たしかに「ある駅」で10分ほど停車していました。そのときぼくは、「地下鉄なのに、なぜこんなにながく、ひとつの駅にとまるのだろう」とおもいながら、ことばをかいていました。
ぼくは昨日、この事実をすっとばして、「この電車は終着駅までいかずに、ひとつ手前の駅でおりかえしている」とおもってしまったのです。意識がもどると、記憶にのこっていました。
これはたぶん、時間を断片でしかとらえていなかったからだとおもいます。時間というものを一連のながれとして、意識のなかに位置づけることをしていなかったのだとおもいます。
あるいはつぎのようにいう方が正確かもしれません。
ひとつの体験を時間のながれのなかに位置づけず、物語のように、「場面はかわる」という断片として解釈していたのかもしれません。
なんにせよ、時間の感覚がありませんでした。
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それで、こういうのをコントロールできないから、虚言癖とか、誇大妄想とか、そういうのがおこるのかもしれないとおもいました。
意識と無意識が統合されていなかったり、統合していく過程にはいっていない場合に、誇大妄想みたいな「ヤバい」ことをいいだすのではないかとおもいました。
ぼくの場合、お酒が「ジキルとハイドの薬」のような作用をもっています。が、うえのようなことを認識しているし(たぶん)、訓練をしているから(ほとんど我流だけど)、まあ大丈夫なのだとおもっていますが、端からみると、どうなのでしょう。
たぶん、狐や狸に化かされたような気がするとき、無意識的に、無意識になっているのではないでしょうか。
2019年4月13日 23時ころ
泥酔しているが、不可解だ。
ひとつ手前の駅で、電車は絶対におりかえしている。
終着駅まで、いっていない。
まちがいなく人為的なミスで、終着駅までいかず、手前で、おりかえしている。
しかし、このウソか、事実は、もはやだれもしるよしもない。
ぼくは、駅員にきいた。
「電車は終着駅までいかず、手前でおりかかえすダイヤもはじめましたか?」と。
駅員はいう。「そんなことは、ありません」と。そして、変なよっぱらいだと、さげすんだ目で、事務室へとひっこんだ。
そんなバカはあるか。
まちがいなく、ぼくがのっていた車両は、終着駅へは、いかず、ひとつ手前でおりかえしている。しかし、もはや、だれもその真実をしるすべはない。
鉄道会社は、終着駅までいったと、最後まで、いいはるだろう。たとえそれが、ウソだとしても。