行為と妄想をかきのこしていくところ

心身の問題などに興味があります。「自分のこと」をことばで表現することで、こころのゆたかさをはぐくんでいます。このこころみのひとつひとつが、だれかのちからになっていたとしたら、とてもうれしいです。

ねむることができない。

はりつめた緊張の糸を土日にはいり、一度きってしまうと、月曜日の朝をむかえるまで、はりなおすことができないので、こまる。

月曜日から金曜日と土曜日から日曜日とで、まったく人間がことなるというのが、この困難の原因なのかもしれない。

デスクのうえに、山づみになった労働を想像すると、今後、この自転車操業的な組織の運動についていけるのだろうか?と、自分の無用な責任感のおもさに、おしつぶされそうになる。

責任とか、仕事ってなんなのだろうとかんがえることがあるが、ぼくは山づみになった労働には、責任などおいたくない。

上司からは最後のところで無責任のにおいを感じているので、ほくもつぶれるまえに、にげだそうとおもっている。

やばくなったら、精神科の病院にかけこんで、サッとにげだそう。

なんか世のなかの「責任」ってことばには、欺瞞があるとおもうなあ。

しょせん、われわれのような個人など、社会の歯車にすぎないのに、なぜ仕事に責任感を過剰に、もたなければいけないのだろう?

社会に対して責任感をもちたいひとは、もてばよいのだけど、もちたくないひとはもたずに、それなりにいきていけるというのが、ゆたかな社会じゃないのかな?

かしこいひとたちが、しくみをつくって、アホなわれわれは、そのしくみの歯車になって、のんべんだらりと、ほどほどの生活ができるというありかたで、よいではないか。

いちいち界王拳をつかって、「やる気、元気、井脇」みたいな空元気をだすのは、つかれる。

もうちょっと自然なかたちで、はたらきたいし、生活をしたい。

平穏にすごしたい。