佐々木俊尚さんのツイート「世界認識が重要」ということについて
今日、佐々木俊尚さんが、Twitterで、こんな発言をしていた。
理想を持つことが大事なのは当たり前。重要なのはその理想の前提条件となる世界認識です。この世界がどのように成り立っているのかという認識をすっとぱして自分なりの理想を語っても、その理想には論拠がありません。この世界を真正面から認識して、それを前提に理想を組み立てるのですよ。
— 佐々木俊尚 (@sasakitoshinao) 2019年4月15日
いつもみたいに、直情的にならず、一歩ひいて、俯瞰的に自分のことをみてみる。
ぼくはいま、世界認識というところで、悪戦苦闘している。
ぼくは、世界認識があまい。世界認識があるにはあるが、半分しかない片端の世界認識だとおもう。
世界認識というのは、たぶん二分すると「内的世界認識」と「外的世界認識」にわけられる。いうまでもないが、ぼくは「内的世界認識」ばかり、たくましくなっていて、「外的世界認識」が未熟だ。
ぼくの内的世界認識は、カミュやカフカ的なものや、司馬遼太郎、梅棹忠夫、河合隼雄などの世界認識をある程度、自分のものとしており、割合ゆたかに、世界を認識している。
しかし、外的世界認識はというと、これはほんとうに未熟だ。世界を外的に認識する術をほとんど身につけていない。いま、まさに発展途上なのだもおもうけれど、先はながい。
内的にも、外的にも、世界を認識するには、たぶん「行為」が必要なのだとおもっている。ぼくの場合、内的な行為は、質的にも、量的にも、十分おこなってきている。しかし、外的な行為は、質量ともに、まだまだたりない。ただ外的な行為は、この数年で、急激にふえてきている。
この間のいらだちや破壊衝動などは、内的世界認識と外的なそれとのあいだにあった溝がうまってきて、ひとつに統合されはじめているが、しかし、まだまだギャップはおおきいというようなところから、おきているような気がする。
なんにせよ、めげずに、そして、失敗をおそれずに、もっと行為しなくてはいけない。
たぶん、いまは、解体して、再構築する過程にあるはずだ。