なやんでいる人の気もちと思考について。

何事かになやんでいて、うかない顔をしているひとに、「パーっといこう、パーっと」とやさしい声をかけてあげても、なやんでいる当人をかえる声にはならない。たとえ、その声が、当人がどれだけ信頼している人の声だとしても、なやんでいることから解放されることはない。

これは、その声が当人にとどいていないからではない。とどいている。が、とどいているだけなのだ。

当人にとっては、そのやさしい声は、すごくありがたいものなのだが、しかし、いまはその声をききたいわけではないのだ。もっとべつの声をまっているのだ。

そのべつの声とは、当人自身がつかめないでいる、霧もやのなかの「何事か」に関する声のことだ。当人としては、まず第一に、この声をくんでほしくてしかたがないのだ。

この声をきいてもらえないかぎり、当人としては、何事も納得することができない。

こういうわけだから、なやんでいるひとにとって、「気にすることないよ」というやさしい声は、気やすめにはなっても、自分自身を変化させるまでには、いたらないのだ。

なやんでいる人にとって、何が一番重要なのかというと、「なやんでいる内容」ではなくて、「なやんでいること、それ自体」だったりする。

「キミがなやんでいるのは、こういうことで、こういう心情になるわけでしょ。それはこうすれば、ああなるので、いっそのこと、うちあけてみたり、チャレンジしてみたらどうだろう?」というような助言は、このとき何にも意味をなさない。当人からすれば、至極ごもっともなことだと、ふかくうなづくだけのことだろう。これでは、家のなかで、なやんでいる状態から、外の世界にとびだすきっかけにはならない。あるいは、他者のことを幻滅するきっかけになりうる可能性があるかもしれない。

なやんでいる当人が、「なんかよくわかんないけど、とにかく、自分は、ダメになりそうなんだ!」みたいに、霧もやのなかで、霧もやにつつまれた声をひっぱりだすことができるようにすることがたいせつなのだと、ぼくはなんとなくおもうのだ。

教育関係の職についておられる人は、うかない顔をしている人は声やことばをうしなっている状態なのだと、しっかり認識しておくべきだとおもう。

あと、つぎのことも、しっかり理解すべきだとおもう。

なやんでいて、うかない顔をしている人間は、声やことばをみつけあぐねているために、発言がすくないという場合があるのだ。

だから、発言、自己主張がすくないからといって、そのひとが何もかんがえていないなどと、浅薄なかんがえをおもちになってはいけない。発言がすくない人間ほど、その内的世界が豊潤であるということは、よくあることだ。そして、「もっと素直になって、ハッキリとつたえようよ」などということを、まちがっても、気がるにいってはいけない。そんなことをいった瞬間、その人はさらにふかく内的世界にまよいこむかもしれないと、ぼくはおもうのだ。