本とか音楽は、ほんとうにチャレンジするために背中をおしてくれるのかな?

背中をおして、チャレンジのきっかけをあたえるような本とか、音楽とかが、本当に存在するのだろうか。

ちょっと疑問だ。

あるひとは、座右の書だとか、なんだとかいって、「この本をよんでチャレンジしました」などという。たとえば、孫正義などは、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』をそのような文脈であげている。

ほんとにそうか?

余談というか、脱線というべきなのだけど、「ほんとにそうか?」とは、一度はつかってみたいフレーズだった。『ドラゴンボール』をしっているひとなら、ピンとくるフレーズなのだ。

さて、あらためて、ほんとにそうか?

とってつけたように、というよりも、のちのち、「おもいかえせば、あの本の、あのことばが背中をおしてくれた」と解釈しているだけではないのだろうか。

ぼくは、本も、音楽も、ほんとうのところで、背中をおしてくれるものであるのか、うたがわしくおもう。たしかに、本も、音楽も、こころをかきたててくれて、チャレンジするための勇気をあたえてくれる。それは、うたがいようがない。しかし、いざ実際にやってみるとき、本や音楽はどれほどの意味をもっているのだろうか。

ひとがなにかにチャレンジするとき、かならずといってよいほど、そのひとには、よき理解者がいると、ぼくはおもうのだ。ほんとうに背中をおしてくれているのは、その理解者なのではないだろうか。

本や音楽は、たぶん、理解者からのサポートに、普遍的な根拠をあたえてくれるものなのだとおもう。

本や音楽は、たしかに、こころのささえにはなるけれど、やや普遍的であるために、そればかりになってしまうと、うっかり、まよいの森にはいりこんでしまって、ちかづいてくる他者が、人間なのか、妖精なのか、あるいは悪魔なのか、判別がつかなくなってしまうような気もしている。