毒親、毒家族から、精神的に解放されたことを確認できた夜

おばあちゃんの傘寿のおいわいということで、親戚があつまって、こぢんまりとだけど、寿司と酒とをかってきて、歓談している。

父親以下、参加している人間をながめていると、みんな演技をしている。なにかを演じながら、声色をかえ、表情をかえ、場に参加している。

そんななかで、弟と妹は演技することができていない。なにごとかをむきだしにしていて、声色も表情も一本調子のようにみえる。ああ、なるほど、かれらは、そういうことが身についていないのだ。

弟と妹をひくく評価したけれど、父親もこりゃあかん。自分の間合いでやれる舞台のときだけ、演技をしているが、ひとの間合いの舞台に場面がかわった瞬間、むきだしの感情で、演技する我をわすれて、我、我、我でやっている。

まあ、こんなことは、どうでもよいのだけれど。

ぼくの問題としては、これまでだったら、神経をすりへらして、場をまるくおさめようとしていたけれど、そんなことはまったくせず、ただただお酒をのみまくって、気のむくままに、よっぱらっている。妹や父親が、感情むきだしで、金切り声をあげたり、怒声を発しようが、こころはなんにも、さざ波だつことはなく、いいたいことだけをはっきりといって、ただただお酒をのむだけだ。

ようやく「毒家族」の呪縛から解放され、家族という場で、自由気ままに、お酒をくらえるようになったのだ。ほしいものが、ひとつ手にはいったことを、たしかめることができたのだ。

みんな感情むきだしで、自分本位でやっているのだから、君だけが、まわりを気にして、感情を抑制する必要なはいんだよ。君くらい、まわりのことをみれるひとが、少々、感情を発散したって、なんてことはないのだ。