恋愛って、ほんとによくわかんない。

鳥山明の友達らしく、絵もうまいとおもったので、桂正和の『I"S(アイズ)』という漫画をよみはじめている。この連休中に、あまり下調べもせず、お酒によったいきおいで、うっかり全巻セットをかったのだけど、しっかり恋愛漫画なので、よみきることができるか、多少こまっている。

いきなり、「彼(彼女)は、ぼくのこと(わたしのこと)、どうおもっているのだろう…」みたいな、あの距離感、あの複雑怪奇な間合いのとりかたの描写だらけで、ヒャーッという感じになっている。これが延々つづくのだから、よくこんなのを週刊誌でやっていたなとおもいながら、とりあえず7巻まで、よんだけれど、圧縮すれば、3巻くらいでいけるのではないかしら。

とにかく、ぼくはどうも、この恋愛という「ほれた、はれた」の人間関係のときに生じる、あの心理的な感覚が苦手なのだと、おもいだした。

ぼくにも、そういうなまの感覚は、ひとなみにあったし、いまもあるだろうけれど、できるかぎり、でてきてほしくないような気がする。苦手だとしか、いえないことが、ややもどかしくもあったりするし、不要だと、いいきることもできないけれど、必要ともいいきれないような違和感がある。なんか実はあの感覚は、危機的な状況に身をさらしているような感じだといえば、おおげさだけど、ちかい気もしたり。

そういえば、『若きウェルテルの悩み』なんかをよんでみようと、ずっとまえに、かったけれど、何度手にとっても1ページめくってよむのをやめて、積ん読がつづいている。

以下、勝手なホラをつづける。

ゲーテのそれが近代人の自由恋愛の話なのだとしたら、この『I"S』という恋愛漫画もおなじ線上にあるものだとおもう。ところで、ここにえがかれている感じは、ほんとうに人間の自然で自由なありかたなのだろうか?なんかちがう気がする。

このちがうなあって感じを、ひとつ理解してみるために、自分を儒教的感覚が皮膚感覚にしみこんでいる人間なのだと位置づけて、かんがえてみるのはどうだろう。

人間関係にともなう気もちなどのゆれのことを、恋愛というものにしぼってかんがえてみる。恋愛にしぼるというのは、このモヤモヤしていて、つかみとりたいことは、恋愛の問題ではない気がするからだ。

ぼくは司馬遼太郎の『竜馬がゆく』の竜馬とおりょうの感じはわかる。ほかには、美女と野獣みたいなのとか、タイタニックみたいなのは、まあわかる。これらくらいの感じだったら、あの気もちのわるい違和感だとか、危機感みたいなものは、でてこない。これは皮膚感覚としてもっている儒教的な感覚による感じかただとおもうけれど。

これとはちがって、テレビの「あいのり」だとか、「テラスハウス」だとか、ああいうのは、もう新聞のラテ欄をみるだけで、アレルギーなんじゃないかというくらい、からだがむずむずしてくる。

いや、しかし、あれもこれもすべてちがうかなあという気がするけれど、とりあえず、ことばにしてみている。

そんなこんなで、そもそも近代人の自由恋愛というのは、普遍的な感覚なのか?ということをちょっとかんがえてみたかったりする。近代的な自我をむきだしにして、他者との関係をいちいち構築していかなければならないのが近代人の恋愛なのだとおもうけれど、そこになんというか、普遍的なモデルみたいなのがないような気がしていて、それじゃあダメなんじゃないの?という感じがしたり。

そもそも処世に関しては儒教老荘、そのほかもろもろ、基準があって、なまの感覚をはぐらかす方法があるのに、なぜこの恋愛というものについては、そうではないというか、なんかちょっとずれているのだろうか。

もし人類が古来からつみかさねて醸成してきた基準をとっぱらって、恋愛そのほかあらゆる行為をすることになるのだったら、もっと原始の感覚を鋭敏にすることになるし、そうなると、人知をこえた巨大なセオリーにもとづいて行為することになって、人間はもはやなにごとにも逡巡することもなくなるはずだ。かんがえ即行為、気もち即かんがえ、行為的気もち、みたいな感じになるはずだ。しかし、恋愛に関しては特にそうはなっていないとおもう。

というわけで、なぜか近代人の恋愛には、不文律的な変なものがある気がしてきたのだ。

恋愛って、すごくだいせつなことなんだろうけれど、なんかすごく違和感がある。なんかすごく不自由だ。相手のことと自分のことをしった気になるという巨大な嘘を共有することのような気もするし。これを経験することで、人間的にひとつ完成するとかなんとか、そういうのこそ、近代人がうっかり真実だと勘違いしてしまった幻想なのではないか。

結婚するひとがへってきているというのも、こういう嘘をのみこむという行為があんまり本質的なことではないなってことを、無意識的にか、意識的にか、わからないけれど、社会的に気づきはじめているんじゃないだろうか?

昨日かいたことに話をもどすと、日常、家族関係であっても、職場であっても、ひとはなにかしらを演技しているのであるけれど、この演技することは、けっこうつかれる。嘘をつきつづけるわけだから、そりゃつかれる。

それで、そういう、なにかを演じることをやらなくてよいのじゃないの?というながれがあって、それが、近代的な恋愛へのバカバカしさみたいなものをうんでいるんじゃないだろうか。

もうちょっとever freeに、とらえてみたいなあ。