ピュア(純粋)なひと。

『I"S(アイズ)』をよんで、桂正和の魅力にちょっととりつかれた。ハマったら、なんでも、とりあえず3つは、ふれてみるという自分ルールがあるので、鳥山明との共作の『カツラアキラ』を今朝よんで、いま『電影少女』をよみはじめている。

桂正和、なんだかとてもピュアなのだ。『I"S(アイズ)』の主人公も『電影少女』の主人公も、ピュアすぎる。

どちらの主人公も、「自分」というものが、うつろげで、みえにくい。「ぼくはだれのことを(なにを)本当にすきなのだろうか?」とか、あっちにホレて、こっちにホレてとか、そんなのばっかりで、いったいこいつの自分はなんなのだ?という感じだ。

これだけみると優柔不断な、ダメダメ人間のようだけど、印象はそうではなくて、どこかに、たしかに、ぶっとい芯がある。その芯はなんだというと、たぶん「他者のしあわせが、自分のしあわせの基準になっている」人間だということなのだとおもう。

この「他者のしあわせが、自分のしあわせの基準になっている」という感じが、ぼくはとても興味ぶかくおもう。

『アイズ』も『電影少女』も1990年代に人気のあった漫画だ。90年代というのが、おもしろい。

おなじ時代に人気のあった『幽遊白書』の15巻131ページに、「オレは四人のうち誰が欠けてもいやだ」というセリフがある。このセリフは、ある登場人物(蔵馬)が、ともにたたかってきた仲間のひとりが、強敵との決闘にやぶれかけ、死をむかえようとしているさなかに、自分も決闘に参加するという意志をしめすために発したものだ。背景としては、蔵馬がでてきたところで、どうにもならないのは、蔵馬自身でもわかっているなかで、こういうセリフを発している。こんな感じで、『幽遊白書』という漫画も、終始ピュアなのだ。

これらは90年代の創作物だけど、実際にこんな感じで、いきていた人間がいる。それがhideだ。

自分のしあわせは、「他者のしあわせ」が基準になっているという人間のありかたというか、ながれが、どうやら90年代から、活発にでてきているような気がする。いいかたをかえると、「主体的に、他人を基準にする」というような感じだろうか。

こういう自我のありかたは、80年代以前とかとは、やっぱりちがう。80年代に世にでたバンドのBOOWY氷室京介布袋寅泰と90年代に世にでたXのHIDEとでは、ちょっとちがう。鳥山明桂正和も鮮明にちがった。

「他人を基準にする」という部分だけとらえると、主体性がないようにみえるので、それでおとなは「もっと自分のかんがえをもちなさい」などというけれど、これはまちがっている。そのおとなには、「"わたしは"他人を基準にしている」という明確な主体性があることが、みえていないのだ。

なんか、こんな感じがあるなってことを桂正和をよんでみて、具体的にわかりはじめてきた。もっとうまくことばにできるとおもったけれど、全然できていないので、残念だ。なんか自分がうまれた90年代って、こんな感じなんやって、ちょっと皮膚感覚的には、わかった感じがあるので、うれしい。

余談だけど、『電影少女』の「電影」ってことばのひびきがよい。電影少女とかいて、ビデオガールというみたいなのだけど、もうすこしひろげるとインターネットとも、よんでもよいのではないか。むりやり、こじつけたけれど、この感じからもhideのにおいを感じる。

hideの「DICE」って曲をきくと、すごくなつかしい気もちになる。ぼくの家庭はロックとは、とおい環境なので、当然、ぼくは幼少のころに、それをきいているはずもない。でも、なぜか、なつかしいっていうは、つまり、この曲には、90年代的な感じがあるからだとおもうのだ。

hide - DICE