肉体的な体力がなくなってくるとイライラしたり、悲観的になってくる

体力がなくなってくると、イライラしてくる。なぜだろう。死にたくなくて、いきたいとおもっているからだろうか。どれだけつかれていても、自分で自分のからだにムチをうって、社会参加しなくてはいけない状態があって、それにすこしずつ、生命がむしばまれていっていると空想してしまった瞬間に、イライラがつのる気がする。この社会全体のバカさ加減にいきどおったり、人間の無力さをのろったり。そんな感じだろうか。

体力があって、健康体のときは、「どうせ死ぬのだし、死ねば、あったものはすべてきえるのだし、自分の生なんて、そんなもんだ」と、そんなふうにおもって、すべてを積極的に"無"にすることができるのに。

元気なときは、ご飯をたべるための労働の過酷さとか、夢も希望もなく淡々と日々をすごしていくむなしさとか、「努力して、ちからをつけて、夢をかなえて、社会にはたらきかけて、変革してやる」みたいな情熱とか、「このまま無意味な労働でつかいつぶされるようなままでよいのか?時間をつくって、なにかをしなくちゃ!」みたいな焦燥感とか、そういうこころのうごきは全部、積極的に"無"にすることはできるようになって、呼吸をするように意識せず、自然にできるようになってきたのだけど。しかし、肉体的な体力がなくなってくると、そういうことが全然できなくなってくる。

いまが一生つづくわけではないとおもえなくて、いましかなくて、いまが一生つづくとおもって、呼吸困難におちいりそうな。先はながいとおもえなくなって、あせってしまって、のんびりできなくなる。

どうやら、あらそいごとがおきる原因は、「衣食住」と、それを手にいれる手段である「お金」と、それを使用するための「時間」にあるような気がする。大科目が「お金、時間」で、その下の科目が「衣食住」になるだろうか。

調子がややわるいので、無になることをこころがけて、今日をすごそうとおもう。