アマチュア詩人。「アマチュア思想家宣言」(梅棹忠夫)より。

このあいだ、通勤中に、ゴミ袋をつついているカラスをみて、不思議なことに、カラスのことをかっこいいとおもった。

ぼくは鳥が、とにかくきらいだ。動物全般、苦手なのだけれど、特に鳥がダメだ。たとえば、鳩の図々しさには、たえられない。「そこをどけ!」などと、文句のひとつでも、いいたいけれど、いえない。そんなことをいって、こちらにむかって、とんできて、頭をつつかれでもしたら…とてもじゃないけれど、鳥にむかって文句などいえない。だけど、それが、とても不快だ。

カラスに関しては、ただただこわくて、その筋のひとみたいな不気味さを感じている。カラスをまえにすると、いつもビクビクしながら、気づかれないように、身をかがめて、ゆっくりとはなれる。不快だ、などといえるわけがない。

そんなぼくが、カラスのことをかっこいいとおもってしまったのだ。

人間に、にくまれながらも、堂々と、我が物顔で、ゴミ袋をあさるカラスのことを、こいつはちょっとかっこいいとおもってしまった。さらに、そのとき目のまえにいたカラスが、ゴミ袋からあさったエサをくちばしでくわえながら、ピョコピョコとあるく姿をみて、愛くるしいとさえ、おもってしまったのだ。

とはいうものの、あいかわらず、動物なんかと、ふれあいたいなどとは、これっぽっちもおもわない。ただ、うけとりかた、感じかたが、変化してきたことが、おもしろいという話なのだ。なんというか、ぼくという人間が、かわりつつある気がする。

ところで、いまさら、ぼくがいうまでもないけれど、こういう感覚をもっていることと、そして、それをことばにして、他者にむかって表現することは、とてもたいせつなことだ。なんのために、たいせつなのかというと、自我の安定とか、自己の確立とか、個性化とかのためにたいせつなのだ。こういうことについては、河合隼雄や竹内敏晴などにくわしいので、割愛する。

ぼくは、自分のこのような感覚を「詩的感覚」だと、とらえている。そんなことをいうと「その程度のもので、なにが詩的感覚だ、アホか」と、そしりをうけそうだけれど、しかし、ぼくはひるまず、そして、ためらわずに、「ぼくのこの文章は、詩的感覚にもとづいた表現なのだ」と宣言する。

ぼくは、この宣言を、梅棹忠夫先生の「アマチュア思想家宣言」をよりどころとして、おこなっている。「アマチュア思想家宣言」の内容を、いまのぼくのちからでは、なんにも説明することはできない。しかし、それの意味するところは、ぼくがインターネット上に投稿した雑文のひとつひとつが、しめしているとおもっている。

梅棹忠夫先生からおそわった「なんにもしらないから、自分でしらべて、自分でかんがえて、自由に表現する」というアマチュア精神をこれからも、ずっとたいせつにしていきたい。