生きることと働くこととのギャップ

よくおもいだしたら、23歳のときに、同志社大学の就職支援課(課の名称がただしいかどうかは不明。仮にこのようにいっておく。)のひとに、「文章をかいて、いきていきたい」といっている。このとき、自分が今後どうやっていきていくのかを、すでに表明していたんじゃないか。時間軸的には、たぶん、2014年のころで、24歳になる、すこしまえくらいのことだ。なぜか突然、こんなことをおもいだした。

「就職できません。就活とか、したくありません。"ある組織のために"、なんてウソをつくことはできません。ウソをついてまで、はたらきたくないです。『なにか興味があることはないか?』といわれても・・・。文章をかきたいけれど、小説家ですか?(笑)そういうことじゃないですし。」
たしか、こんなことをいった。

このとき、就職支援課で、対応してくれたのは、たぶん課長部長くらいのえらいひとだったのではないかとおもう。べつに、えらかろうが、えらくなかろうが、本来はどっちでもよいのだけれど、気分としては、えらいひとだった方がよい。記憶がまちがっていなければ、おごそかな感じの別室につれていかれて、話をしたはずだ。記憶があいまいなのは、そのとき、はじめて、「文章をかきたい」などという表現欲求を、からだの外に、はきだしたからだとおもう。たぶん、ドキドキして、記憶するどころではなかったのだとおもう。

この就職支援課のひとは、たしか、「そうか、文章をかいて、くっていくか・・・、それはちょっとあれやな。それやったら、たとえば、医療系の事務とかは、どうや?君にやったら、あっている気がするし、#%&⑪⑩??」というようなことをいっていたとおもう。記憶の断片は、これくらいしかのこっていない。あとは、なにをいっていたか、おぼえていない。

このひとの顔をおぼえていないけれど、記憶のなかには、とてもよい印象でのこっている。年齢的には50歳代後半くらいのオッサンだったとおもうけれど。

こんな調子なので、当然、名前など、しらないし、その後一度もあっていない。また、このやりとりのあと、特になにかに気づいたわけでもない。だいたい、顔も名前もおぼえていなくて、あいまいな記憶だけがたよりなので、実在するのかどうかも、あやしいくらいだ。

しかし、おもいかえすと、どうも、このやりとりの瞬間から、なにかが、うごきだしていたような気がする。たぶん、それはただしいとおもう。

2014年は、就職活動をするため、という名目で、意味もなく大学を一年留年した年なのだけれど、就職することが、にっちもさっちもいかなかったので、それ以前から、就職支援課には、何度か足をはこんでいる。なのに、このやりとり以来、就職支援課に足をはこんだ記憶がない。なぜそうなったのだろうか。

上にかいたやりとりの前後で、就職活動をすることも、進学することも、進路というものに関することのなにもかもを、かんがえることをやめた。アルバイトもやめたし、経済学を勉強しようとすることもやめたし、無理にひととあうこともやめた。先をみながら、なにかをするということをほとんどやめた。

それから、やりはじめたことといえば、意味もなく京都を散策することと、梅棹忠夫をよむことだ。Amazonの履歴をみかえすと、2014年の8月に、梅棹忠夫の本をはじめてかっている。『文明の生態史観』と『情報の文明学』をかっている。

ようは、なんやわからんけれど、いきかたが、かわりはじめたのだ。そのきっかけになったのが、就職支援課でのやりとりであり、「はたらきたくない」、「文章をかいて、いきていきたい」ということの告白だったのではないかと、解釈してみたい。

いまのいまおもうと、このときの就職支援課のひとからは、現実の世界に入門するための扉をひらいてくれたような、ちからづよさを感じていたような気がする。なんか、これぞ、本物の教育者というような人物だった気がするといいたいので、さきに「彼が、えらいさんである方が、気分としてはよい」といったのだ。このひとは、ぼくの「いきていくこと」と「就職すること」とのあいだに不均衡があることをみぬいていて、理解してくれていたのだとおもう。「とりあえず、医療事務でも、どうや?」という問いかけに、そういう語感があったような気がする。結果的に、いま、医療事務ではなく、学校事務をやっているけれど、「とりあえず、やってみて」よかったので、たった一度のやりとりで、うまくみちびかれたような気がしないでもない。変な感じだけれど、このやりとりが記憶にのこっているというのは、そういうことなのだろうとおもう。

このひとは、ぼくのことをなんにもおぼえていないだろうけれど、もう一度あいたいな。なんとなく、あえば、なにかがわかるような気がするから。