メタ認知、桂正和と角田光代の作品との体験をとおして
角田光代のエッセイ『恋をしよう。夢をみよう。旅にでよう。』をよんでいる。適当に、ながしよみしているので、とやかく寸評などはしないけれど、ちょっとだけ、読書感想文をかこうとおもう。
本書のあちこちに、ひょっこりと顔をだす著者の酒のみアピールが、なんかよい。「お酒を飲むのが好きで、飲みだしたら泥酔するまで飲まずにはおられない」(97ページ)という、この著者のことをちょっとすきになった。199ページにある「一万円のワインを一本飲むより、五百円の焼酎を一万円ぶん飲む、というほうが魅惑的だった。」という一文は、なんともいえず、グッときた。泥酔するまで、いっしょにお酒をのむことができれば、たのしいだろうなと夢想してしまうほど、著者のお酒に対する姿勢がこのましくって、泥酔の作法をおしえてほしいと、すこしおもう。こんな感覚を共有できるひとと、たのしくお酒をのむことができたら、なんとしあわせなことだろう。
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ぼくはこうして、このひとのことをすきになることができたので、「これで、この著者の小説をよむことができる」と、ほっと一息、安心したのだ。
ぼくには、対象物に依存するというか、愛着をもつというか、そういうこころのうごきがなければ、ものごとをうけいれることができないという特徴がある。あるいは、これは、悪癖とか、性癖などというべきかもしれない。とにかく、こころがうごかないような感じの、あまり興味のないことに、とっかかることが、どうにもできないのだ。
しかし、そのかわりといってはなんだけれど、その対象に対して、すこしでも、こころがうごいて、おもいいれがうまれれば、無理なく、自然に、スルッと、ふれていくことができるようになるのだ。
このたび、自分のそういう悪癖、性癖をメタ的に認識できたような気がする。卑近な方法論的にいうと、あたらしいものごとに、とりくもうとするときは、比較的気がるに、ふれることができるものからとりかかって、まずはそいつをすきになることが重要なのだとおもった。
こういうことに気がついたのは、あるいは、桂正和のおかげなのかもしれないと、すこしおもう。
『I"S』をよんでいるあいだ、「こういう恋愛描写は苦手だなあ」と終始おもった。しかし、作品の核にあるピュアさを発見したときに、自分のこころはすでにうごいていて、作者桂正和への興味がうまれていることに気がついた。そうなると、あの恋愛描写についても、やっぱり最後まで苦手だとはおもったけれど、しかし、なんか全然ふつうに、たえることができるようになっていたのだ。いや、もうちょっと正確にいいたい。たえるというほど苦行ではなく、もっとやわらかい感触で、「まあ、こんなのもあるさ」というような身がるさがあって、ごくごくありふれたもののように感じられた、といえばよいだろうか。
『電影少女』の「おまえのいいとこ、ひとつめっけ」というセリフがでてくる場面が印象的だったけれど、なんかこれがすべてをあらわしているような気がしないでもない。
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