コミュニティとコミュニティに参加するための意識のあり方について

今日は、大阪の東住吉区民ホールでひらかれた高原剛一郎さんの聖書講演会にいった。YouTubeチャンネルも開設しているようで、そこそこ人気みたいだ。
www.youtube.com

講演の内容に関することは、またべつに記録しようとおもう。

今日、この講演会に参加して、コミュニティがあるのって、けっこうよいものだと、おもった。もどってこれる場所が、具体的にあるのがよい。コミュニティとは、つまり、「そこにいけば、とりあえず、誰かがいる(なにかがある)ような場所」だと感じたのだけど、それが、けっこうよいとおもった。

ぼくはというと、ジプシーみたいな(いまは、ジプシーということばには軽蔑的なニュアンスがあるから、さける方がよいみたいだ。そのかわりに、ロムなどというらしい。)、あるいは、はぐれメタルみたいな単独行動者で、コミュニティというものをもっていない。

はぐれメタルの場合は、いちいち自分でセッティングして、「誰かがいる(なにかがある)場所」をつくらなければならない。それはそれで、よいものもあるけど、同時にコミュニティをもっておくことのよさを今日はつよく感じた。

しっかりとしたコミュニティをもっていることは、「ゆたかさ」のひとつの形なのだとおもった。ぼくは、いまなお、意識にかたよりがあって、コミュニティへのアレルギーがあるので、この点で、ゆたかじゃないし、多様性がないなあと、おもった。

このちょっとした、自己否定は、以下のことを感じたから、おこなっている。

はぐれメタルであることを、父性的に、独立自尊の精神でもって、おこなっておれば、よい。しかし、母性的に、あまえの精神でもって、それをやっているのだとしたら、それはちょっとちがうから、もっと素直にならなければならない。

母性に依存して、あまえの精神がすくなからずありながら、はぐれメタル(ひとりでいること)をやっていると、コミュニティにスルッと参加することができなくて、その場に違和感をおぼえるような気が、なんとなくしたのだ。