ラウンジの女性従業員との濃密なやりとりのこと

昨日は、お酒をのむつもりはなかったが、結局午前1時すぎまで、のんでいた。ひさしぶりに、アルコール分解による体温の上昇にくるしまずに、ねようとおもっていたが、予定がかわった。

午後10時半ころに、まえに一度いったラウンジの女性従業員から、「今晩、よかったら顔をだしにきてください!」とLINEがあった。このあいだは泥酔していたので、今日みたいに、意識がハッキリした素の状態だったら、その場はどんなふうにみえるだろうと好奇心がでてきて、「それじゃ、いまからいきます」と、すぐに返事をした。

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店につくと、先客に、わかい男性がひとりだけいた。

はじめの1時間くらいは、1本6000円でボトルキープした焼酎の水割りをのみながら、その女性がかっているペットの犬の話とか、ぼくの休日のすごしかたの話など、平凡なことをのっぺりとはなしていた。

その後、すこしだけ、カラオケでうたうことを提案された。カラオケというものは、ひとりでやるものだとおもっているので、あまり気がすすまなかったが、1曲2曲、順番にうたって、30分ほどがたった。

ちょうど、このころくらいから、他のよっぱらいたちが、店にやってきて、まわりが多少にぎやかになりはじめた。

カラオケタイムがおわったころには、よいもすこしまわってきて、つかれもでてきた。そろそろ話題もなくなってきた感じもあり、ボチボチかえろうかとおもいながら、その女性がうたっていたコブクロの『赤い糸』について、「この歌の詞って、いいよね。ぼく、すごくすきです。」などといって、なんとなく場をつないでいた。

このあたりから、自分が何をはなしていたのか、あまりよくおぼえていなくて、何がきっかけかわからないのだが、その女性が次第に「自分のこと」をかたりはじめた。たしか、その女性が「自分のこと」をかたりはじめるときの第一声は、ぼくがくだらないことを一言いおうと声をだした瞬間と同時だった。他のお客の声で、まわりはさわがしくて、ほとんど、ききのがしかけたが、その表情には、ことばをのみこんだような感じがあるようにおもえたので、「あれ?いま、なにかいおうとしましたか?」ときくと、「はい、じつは…」と、はなしはじめた。その様子には、なにか意を決したような感じが、すこしあるようにみえた。

「自分のこと」とは、つまり、その女性の「人生の物語」のことだ。これは、最後の30分ほどのあいだのことだったが、時間も空間もグニャッと変形して、その場がちがう世界に一瞬のうちに姿をかえたようであり、つかれも、眠気もふっとんでしまうほど、ここちよい場になって、たのしくなった。まわりは、他のお客でさわがしく、対面では話をききとりにくかったので、もっとしっかり話をききたくて、隣にすわるように、まねきよせた。

ここで、おもいだしたのが、他者が「自分のこと」をぼくにかたりはじめたのは、これで2度目だということだ。それも、そのたった2度の経験は今週おきている。これは、ぼくという人間が、他者の話をきくことができるようになってきているという変化だとも、いうことができるとおもっている。

ぼくは、この「他者が、ぼくにむかって、自分のことをはなしはじめた」ということを、自分のことを理解するために、文章にしたいとおもっている。しかし、それを文章にする方法がわからない。その女性従業員が、ぼくにかたってくれた「自分のこと」をただ単に文章にしてしまうのは、ちがう気がする。

それで、『モゴール族探検記』や『サバンナの記録』(どちらも梅棹忠夫著)や司馬遼太郎などをみかえしてみる。他者のことをかいているが、どういう距離感で、かいているのか、いまいちわからない。すき放題に、「著者の目からみえる他者」のことをかいているようにもおもえるし、しっかり他者に対して何かしらの配慮をしているようにもおもえる。

女性従業員が「かたった自分のこと」、そして、「かたったという行為そのもの」が、ひとりの人間の成長という文脈では重要なことで、意義深いことなのだとおもうし、その場に参加していたことが、とても感動的だったわけだが、これをことばにして表現するということを、安易にやってしまうのは、はばかられるようにおもう。

というわけで、以上のことは、ぼくが脱皮するためには、なにが必要なのかということを納得するために、いつものとおり婉曲にかきくだしたことなのだった。人類学、民族学というものを本気でやってみることはできるだろうか…。 

モゴール族探検記 (岩波新書 青版 F-60)

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