今日はお酒で気分をいやす。

ひとの話をまともに、ききすぎて、体の調子がわるということを、昨日かいた。対処のために、母親とはなしこんだ。

理屈どおりに、今朝は体がすこしかるかった。昨日と今日とでは、全然ちがった。それでも、まだ完全に回復しているとはいがたいので、今日はお酒をのんでいる。

うまい。こんなに、うまい生ビールをのんだのは、ひさしぶりだとか、おもっている。一杯目には、ひとりで居酒屋のカウンターにいるのに、「ぷはぁっ」とか、ふつうにいってしまった。むしあつい夜だからなのか、とにかく、うまい。

それで、なんだか調子があがってきたのである。ということで、余談がはじまる。

自分のなかで、「子どもからおとなへ」というながれがとまらない。30歳がひとつの節目だと意識した途端に、「ずっと子どもでいたい」と、あれほど駄々をこねていた"ある自分"が、おとなになりたがっている。意地をはって、にぎりしめていた、あらゆることが、手ばなされていくような感じがする。

一生、あそんでくらしていくために、あたらしいものの見方がほしい。世のなかをながめて、ずっとおもしろがることができるモノサシをたしかなものにしたい。

そんなふうに、おもうので、あそぶために民族学をちょっくら勉強したい。あそびたいだけなので、日本語だけで、ゆるりとやりたい。国際的な競争力とか、まっぴらごめんだ。というわけで、教科書的なものをよみはじめた。ねむたくならない程度に、ゆるくよもうとおもう。
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ぼんやりながめてみると、やっぱりオートエスノグラフィーがおもしろそうだ。

オートエスノグラフィーとは、ざっくりというと、「自分が自分を対象にして、知の制度批判のために、感情経験の内省的喚起によって、記述する」ものという。たしかに、ぼくにピッタリではないか。先生には、これをすすめられたけれど、やっぱりみる目のある、すごい人間だ。

また、話がかわるが、おとなになるように、意識がむかいはじめた自分は、かえってすごく子どもっぽくなってきている。

そのひとつが、小説や漫画をすごくたのしくよめるような心身に、もどってきていることだ。自然に感情移入していて、その創作の世界のなかに、はいりこむことができている。

よっぱらってきて、つかれてきたので、かくのをやめる。しかし、これでよいのだ。だって、これは、オートエスノグラフィーのための資料でしかないのだから。

いや、今日はお酒がうまい。ていうか、ビールがうまい。