"いま"という時のなかで、だれとも関係をもつことができない人間

未来の関係を想定しながら、他者にはたらきかける。たとえば、来週、またお酒をのみにいけたらよいなあ、とおもいながら。

しかし、他者との関係は、いつも、きまって、過去にあったことの結果として、目のまえにあらわれる。たとえば、ぼくの酒癖のわるさで不快にさせていて、もうしわけないとおもっていたことが、実はたのしんでくれていたんだと、相手からお酒にさそわれたあとになって、気づかされたり。

"いま"このときの自分は、だれとも、なにとも、関係をむすんでいない。"いま"このときの自分は、つねに孤独のまっただなかにいる。

未来のために行動した"いま"は、いつも解釈された過去のなかにある。"いま"は、つねに、未来と過去の狭間でうろちょろしていて、からっぽのままなのである。

ぼくという人間の対人関係の基本は、たぶんこんな感じだ。

角田光代の『三月の招待状』にでてくる、佐山宇田男という人物に、変な感情移入をしてしまった。

「私たちはみな、自分がこうしたい、と、相手にこうしてほしい、を混同させながら生きているんだ。それが関係というものなんだ。宇田男はそれがどうしてもできない。」(角田光代、『三月の招待状』213ページ)

三月の招待状 (集英社文庫)

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