BOOWYという普遍的な青春~氷室京介と布袋寅泰の青春観についての空想~

最近、BOØWYが、さわがしい。(以下、変換がわずらわしいので、BOOWYと表記する)

どうやら、LAST GIGSの完全版がでるらしい。

LAST GIGS -THE ORIGINAL-(完全限定盤スペシャルボックス)(4CD+トートバッグ他封入)
 

BOOWYはいつだって、青春だ。

ぼくは28歳なので、BOOWY世代ではないが、それでも青春はBOOWYとともにあった。

氷室京介布袋寅泰のライブには、何度も足をはこんだ。

 

なぜBOOWYが青春なのかというと、たぶん彼ら四人が、青春をかけぬけたバンドだったからだ。

布袋寅泰が最近のインタビューで、過去の自分たちを再解釈していた。

「チャートで1位になったんですよ。あっ、来たな。燃え尽きる時が近づいてきたなっていうのが、4人の中にあったと思いますね」

「東京ドームまで、短いですけど青春を駆け抜けた。」

lite.blogos.com

 

バンド解散後、うれたのは氷室京介布袋寅泰なので、ふたりのことしか、ぼくはよくしらない。高橋まことは、コブクロ小渕健太郎ジストニアから復帰したとき、ライブに花をおくっていたのをみて、情にあつい、かっこいい男だということをしったくらいだ。

 

話がそれた。

 

布袋寅泰BOOWYを再結成したがっている。世間では、節操がないとか、なんだとか、そういう声もあるが、余計なお世話だろう。

布袋寅泰は、きっと、あのとき自分たちの意志で時間をとめた、青春という過去を、現在という未来のなかで、ふたたびうごかしてみたいのだ。

 

一方で、氷室京介は、かたくななほどに、再結成をしようとしない。ひとりで全曲BOOWYをうたうくらいなら、再結成してくれよ、という世間の声もあるが、これもまた、余計なお世話だろう。

氷室京介は、きっと、あのとき自分たちの意志で「時間をとめる」と決断した青春の傷を、現在という未来においても尊重したいのだ。

 

氷室京介布袋寅泰は、青春という時間のとらえかたが対照的だ。

布袋寅泰は新作『GUITARHYTHM Ⅵ』で、氷室京介をのぞくBOOWYのメンバー(高橋まこと松井常松)と音をならした。

布袋寅泰は、青春を未来に位置づけて、いまをいきている。


布袋寅泰 - 「Thanks a Lot」

氷室京介は、ライブでは、かならず「ANGEL」をうたう。そして、この曲は、ソロになって一発目にリリースした曲であり、もっともたいせつにしているものだと、ことばをそえる。

氷室京介は、青春を過去に位置づけて、いまをいきている。


1988年 アルバム大賞 ANGEL 氷室京介

(けされてしまったけれど、レコ大のときの氷室京介)

 

氷室京介布袋寅泰は、このように、すごく対照的な人間なのだが、だからこそ、このふたりがともに音をならしていた、BOOWYという時のながれは偉大なのだとおもう。ふたりが、であったことは、奇跡であり、象徴的なことだとおもうので、ふたたび、その時がうごきだすことは、それこそ奇跡をまつしかないのかもしれない。

 

参考までに。

hide-himuro.hateblo.jp