イエスであれ、ノーであれ、自分の「こうしてほしい(してほしくない)」、「こうしたい(したくない)」ということの意を、他者にくんでもらえるという経験が、他者との関係性をもつために必要な健康をはぐくんでいくのだとおもう。
「こうしたいことを"あのひと"にいったけど、やらしてもらえた!」
「したいけと、それはできないといわれた。しかたがない。」
「こうしたくないけど、これはしなければならないみたいだ。」
「したい(したくない)」という願望、欲求、希望などが、みたされても、みたされなくても、それはほとんどどうでもよいことなのかもしれない。
「意をくんでもらえた」という「納得」があることこそが、重要なのだとおもう。それによって、ひとは社会性を身につけていくのだとおもう。
なんで、ひきこもる人間とか、結婚しない人間がおおいのかというと、彼らは、たぶん上のような経験がほとんど蓄積されていないからだとおもう。
ひきこもりも未婚も、わるいことだとはかんがえていないが、主観的には、そういうことをすべてそつなくできる完璧人間に「なりたい」という願望がある。こじれているのは、その意を社会的にくんでもらえたという納得の経験が、希薄だからだろうとおもう。