あきらめが肝心。すべてのことが心底どうでもよいとおもう立場。

phaさんみたいに、首尾一貫して、「ダルい」って、いえるひとには、あこがれるし、尊敬してしまう。

人生にゆとりを生み出す 知の整理術

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ぼくも「ダルい」って、はっきりといってみたい。正直なところ、はたらくのは、ダルいもの。

だけど、「ダルい」って、いってしまったら、自分はおわってしまうような気もしている。自分をかろうじて、ささえているものは、「ダルい」っていわずに、がんばりつづけることのような気がしているから。

いきていること自体がダルいのに、だけど、いきていくためには、がんばりつづけないといけないって、おもわなくてはやっていけないところに、ぼくのしんどさがある気がする。

すごく優柔不断なのだ。だから、たぶん、phaさんのことが気になるのは、「ダルい」って、はっきりといってしまえる一貫性に、つよくひかれているからなのだとおもう。

かっこよくいうと、ジキルとハイドみたいに、相反するふたつの人格が、ぼくのなかにはあって、分裂している。そのあいだに、たたされている「ぼく」は、「がんばる」を選択するとハイドがぐずって、「ダルい」を選択するとジキルがかなしむことに、翻弄されている。

このようなぼくが、唯一すくわれて、楽になる道は、たぶん「あきらめること」なのだと、最近はおもう。「心底、どうでもよい」って、おもえたときに、すごく自由につつまれているような感じになる。こころも、からだも、あたまも、おだやかで、するどく明晰な感じになる。

「ダルい」とか、「がんばる」とか、そういう感じのことをいっさいすてて、まえにも、うしろにも、うごかないで、もうどうでもよいっていう立場になったとき、ぼくはぼく自身のなかに、なにか一貫性のようなものを感じた。

でも、最近は、「エスノグラフィを勉強したい」とがんばりはじめて、「いまの仕事をやめたい」とダルくなりはじめたから、すごく心身やあたまが、にぶくなって、めっちゃしんどくて、つかれがたまってしまっている。

はじめから、すべての人生に目的はないので、がんばることも、ダルくなることも、どうでもよいことなのだ。時のながれに身をまかせて、毎日、部分的に、たのしんだり、かなしんだりしながら、いつのまにか人生のおわりをむかえるのだ。

人生は、あきらめが肝心だ。「あらゆることが、心底、どうでもよい」と納得できたさきに、ひらけていく未来があるようにおもう。